井出 薫
里見哲の時評のとおり、スペースシャトルの事故は科学の限界を示すものではない。だが、今回の事故が有人飛行の危険性の高さを再認識させたことは事実である。果たして、人間が危険を冒して宇宙へと飛び立つ必要があるのだろうか。 ある人は研究開発のために有人飛行が必要だと主張する。別の人はロマンだと言う。宇宙飛行士の物語は人々の科学への興味を沸き立たせ、明日を担う世代の育成に寄与すると言う。 コンピュータやロボット技術の進歩により、人がシャトルや宇宙ステーションで作業をする必要性は薄らいでいる。無人の火星探査衛星マースパスファインダーに搭載された探索機が火星表面の見事な映像を地上に送ってきたことは記憶に新しい。NASAのホームページを覗いてみれば、無人衛星から貴重な映像や研究データが日々刻々地上に送られていることが分かる。研究開発のために有人飛行が必要だという意見には根拠がない。現状で人手作業が必要なことが残っていたとしても作業を無人化することは可能である。経済的に言っても、無人の方がコストを押さえられる。宇宙開発はローテクではなくハイテクの世界である。 だとすると、有人飛行の必要性はロマンだということになる。たしかに、宇宙へのロマンは理解できる。多くの人が宇宙に思いを寄せる、そこにロマンを感じる。宇宙飛行士を目指す少女がドラマの主人公にもなっている。なぜ、宇宙に行くのか。そこに宇宙があるからだという答えがあるだろう。前人未到の高峰や極地、未開のジャングルへの挑戦と同じである。 だが、今回のシャトル事故から分かるとおり宇宙飛行は登山と全く異なる。運不運に左右されないわけではないが、登山家が登頂に成功して無事帰還できるかどうかは、登山家自身の計画策定と状況判断力と登山技術できまる。一方、宇宙飛行が成功するかどうかは、シャトルの設計者・保守者の技術的能力と予算額で決まる。事故がおきれば飛行士に待っているのは死である。飛行士から見ればすべて運任せである。自分で自分の運命を占うことはできない。そこに本当にロマンがあるだろうか。 地上では餓えで死んでいく人がまだたくさんいる。それなのに、膨大な資金を投じて有人飛行をおこなうことに疑問を感じないわけにはいかない。宇宙へのロマンは、無人衛星が地上に送ってくる映像やデータを分析することで十分に満たすことができる。少年少女たちには、パソコンとインターネットを使って、みずからデータ分析をおこなう機会を与えればよい。 |