☆ 科学の敗北ではなく、人間と組織の敗北 ☆


里見 哲


 スペースシャトルの事故を見て様々な感慨が涌く。まず何より犠牲になられた7名の方のご冥福をお祈りする。自分たちの夢を宇宙開発に託し、日夜努力してきた飛行士の方々の無念さは、いかばかりであろうか。
 今回のこの事故は、果たして未然に防ぐことができなかったのだろうか。スペースシャトルの事故としては、2回目。113回の飛行中2回が悲惨な事故に繋がったことになる。。世界で一番優秀なコンピュータが算出している事故の可能性というのは、限りなくゼロに近いものであったであろうにもかかわらず、2%弱の事故率である。当初からこのような数値が出ていたら、このプロジェクトは、少なくとも前回のチャレンジャー号の事故の際に取りやめになっていただろう。ジェミニ、アポロに比べて際立つ事故率である。
 この事故をもって科学技術の限界であると語るのは、的を射ていない。むしろ科学技術を使いこなす人間あるいは組織のほうに問題があったと考えるべきではないか。前回の事故でも打上寸前まで、メーカーの担当者は打上中止を主張していたという。国家規模のプロジェクトで、組織内に危険性を認識していた担当者が全くいなかったということは考えにくい。打ち上げた後では、全く善後策が不可能だったということも考えられるが、その前の段階で、最早最先端技術であるとはいえないスペースシャトルのプロジェクトそのものを中止すべきという声は果たしてなかったのだろうか。一部では、現行のシステムの危険性を指摘し、乗務員の脱出用設備を設けるべきであるという声があったと聞く。
 組織的な決定には、集団的な浅慮が起こることが知られている。国の威信のため、上司の保身のため、今まで費やした経費を正当化するためなどが議論の中心となり、そもそもの安全性の確保ということに、どれだけ冷静な議論がなされたのであろうか。遠くは日米開戦の際の大日本帝国の首脳、最近ではメガバンクや食品会社の不祥事など、いずれも集団的浅慮が働いたものではないだろうか。
 一部マスコミは、科学の敗北あるいは安全神話の崩壊と囃し立てている。だが、その見解は、嫌味であると同時に浅慮である。単なる刺激に対する反応に過ぎない。おそらくこのような陳腐な発想に立つ限り、NASA当事者のレベルを超えることはできないだろう。
 もっと愚かなコメントは、「神の復讐」というものだ。結局人の責任を神に転嫁するということなのだろうか。
 問題は、人間と組織にある。冷静な判断を行える状況にNASAという組織がなかったことだ。到着を直前にした大惨事、それは、かつてドイツ第三帝国の栄光の象徴であったヒンデンブルク号の最後を思い出させる。ドイツの国家威信を賭けた一大賭博は、惨憺たる結果に終わった。今回のコロンビア号事故は、人間、組織のあり方が、21世紀になっても大きな進歩を遂げていないという警鐘と受け取るべきだと思われる。この悲劇を糧にして、再度宇宙に挑む。威信や経費より安全性を重視したプロジェクトで再挑戦することこそが、真に勇気ある行為といえるのではないだろうか。勇敢に未知の世界に立ち向かった飛行士たちの死を無駄にしないためにも、責任のある対応が求められよう。冒険心に富みながら、失敗を次の成功に生かすことで、世界一の大国になった米国。軌道修正できるのか否かが、21世紀の組織のあり方を占うことになろう。

(H15/2記)


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