☆ 日本人3名ノーベル物理学賞受賞 ☆

井出薫

 7月10日に急逝した戸塚洋二先生を偲んだ「戸塚先生とニュートリノの質量」(視点、7月10付)で、補足にこう記しておいた。
『日本でも、クォーク理論で画期的な業績を挙げた西島和彦、弦理論の原型を作った南部陽一郎、クォーク・レプトンが3世代あることを予言した小林・益川両氏などノーベル賞受賞者に優るとも劣らない業績を挙げている理論家たちが存在する。ノーベル賞は数ある賞の中でも比較的公平な賞でありそれが権威の源泉になってはいるが、それでも運の良い者が受賞するのであり、受賞していない者の中に受賞者よりも優れた業績を残している者がいることも覚えておいてもらいたい。』

 ここで名前を挙げた4名のうち3名が見事に今年のノーベル物理学賞に輝いた。我ながらタイムリーな記事だったと思う。こういう先見の明がいつも働けば、もう少し社会に貢献できたかもしれない(最近そういうことばかり言っているが)。だが、いずれにしても、3名とも素晴らしい業績を挙げており文句なしの受賞と言ってよい。

 南部陽一郎氏はその業績がやや古くなってきたので受賞は難しいと予想していた。だが、近年超弦理論が物理学の究極理論として広く認知されてきたことが氏の受賞を後押ししたと思う。素粒子を紐として考えるというアイデアはまさしく南部氏を嚆矢とするもので、素粒子物理に革命を起こしたと言っても過言ではない。

 小林、益川両氏は、K中間子の崩壊で検出されるCP対称性の破れを説明するためにクォーク・レプトン3世代論を提唱し、素粒子の標準理論を完成させる上で画期的な業績を挙げた。クォークとレプトンがそれぞれ対応して3世代(クォークとレプトンがそれぞれ1世代2種類、全部で3世代6種類)あると考えると、世代が異なるクォークの間に混合が生じてCP対称性の破れが説明できる(CP対称性の破れは時間対称性の破れと同等で、この宇宙で粒子ばかりで反粒子がほとんど存在しないことを説明する手掛かりになる)。これは素粒子物理学の長年の謎を解くものであり、標準理論の枠組みを完成させるものでもあった。両氏がこの理論を提唱した70年代前半にはクォークはまだ3種類しか発見されておらず、6種類のクォークの存在を予言するこの理論が如何に先駆的なものだったかが分かる。(注)
(注)但し、クォーク間の世代混合のアイデアは小林、益川両氏より10年前にイタリアの物理学者ニコラ・カビボ氏が提唱している。ただカビボ氏の理論は2世代理論(クォークは4種類)であった。クォークには6種類あることが実験的に証明されており、正しいのは小林・益川理論の3世代論だ。だが世代混合のアイデアを最初に提唱したカビボ氏の業績は小林、益川両氏に優るとも劣らない。事実、世代間の混合量を示す混合行列はカビボ・小林・益川行列(CKM行列)と呼ばれ、最初にカビボ氏の名前が出てくる。だから益川、小林両氏がノーベル賞を受賞するときはカビボ氏も当然受賞すると予想していたが、南部氏が受賞してカビボ氏が漏れている。将来カビボ氏が受賞する可能性もあるが、この辺りにも冒頭に記したとおり運不運がある(それ以外の何らかの微妙な力があるのかもしれない)。また、私が名前を挙げた四名の残りの一人西島和彦氏の業績も南部、益川、小林の3氏にけっして引けを取るものではない。

 いずれにしろ湯川博士の中間子理論以来日本の理論物理学が世界の最先端にあったことを3名の受賞が裏付けた格好で誠に喜ばしい。ただ、現在の最先端理論である超弦理論の研究では日本人の名前が挙がることはほとんどない。実験物理学の分野でも、稼働早々故障して先行きに不安が残るがCERN(欧州原子核研究機構)のLHC(大型ハドロン衝突型加速器)がリードしている。果たして、この先も日本の研究者が世界トップの業績を上げ続けることができるかどうかは予断を許さない。素粒子や宇宙の研究には実用性がなくその割に膨大な費用が掛かるという批判が付き纏う。そういう声はこれからも益々強くなるだろう。遺伝子工学、人工万能細胞、ナノテクノロジー、コンピュータサイエンス、環境科学など実用性の高い分野に人材と資金をシフトするべきだという声は少なくない。だが素粒子や宇宙の研究には実用性だけには還元されない人類の夢がある。狭い島国に暮らす日本人としては実用的な研究で経済成長することを期待したくなるが、このような夢のある分野で日本人研究者が活躍できる環境が維持されることを希望したい。



(H20/10/7記)


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