井出薫
スーパーカミオカンデの研究で中心的な役割を果たしノーベル賞候補者の一人でもあった東京大学名誉教授戸塚洋二先生が7月10日お亡くなりになった。享年66歳。心からご冥福をお祈りする。 あいにくと場所は忘れてしまったが20年ほど前に先生の講義をお聞きしたことがある。ニュートリノの質量や陽子崩壊についてとても分かりやすく説明していただき、こういう先生がいたら私も別の道を選んでいたかもしれないと思ったものだった。研究者としてだけではなく、教育者としてもさぞかし大きな貢献をなさったことと思う。 太陽は核融合でエネルギーを放出している。核融合がなければ太陽は重力により、(電子や中性子などフェルミ粒子の特徴である)縮退圧で重力を支えられる状態まで収縮し弱い光しか発しない褐色矮星となり地球に生命が誕生することはなかった。太陽など恒星の核融合は、水素原子核(陽子)4つからヘリウム原子核(陽子2個と中性子2個)が生成される過程であるが、一度の反応でヘリウムが生まれるのではなく、最初に陽子2個が融合して重水素(陽子1個と中性子1個)と陽電子(電子の反粒子でプラスの電荷を持つ)と電子ニュートリノが生まれる反応が起きる。この過程で生じたニュートリノの大部分は太陽の内部で吸収されることなく外部に放出される。この太陽から放出されるニュートリノの観測値が理論から予測される値の2分の1から3分の1しかなく、「太陽ニュートリノ問題」と呼ばれ物理学者の頭を悩ませてきた。 ところでニュートリノは1種類ではなく3種類ある。恒星の核融合で放出される(電子と対をなす)電子ニュートリノの他、量は少ないが、μ粒子と対をなすμニュートリノと、τ粒子と対をなすτニュートリノが存在する。(これをレプトンの3世代と呼び、クォークの3世代と対応する。)前世紀の30年代天才物理学者フェルミにより原子核のベータ崩壊を説明するために導入されたニュートリノは、当初静止質量がゼロ(=真空中の光速度で運動する)の素粒子だと考えられていた。 ニュートリノが3種類あることから、太陽から放出される電子ニュートリノが地球に届くまでに他の2種類のニュートリノに変化すると考えると、太陽ニュートリノ問題は解決する。これをニュートリノ振動と呼ぶのだが、ニュートリノ振動が生じるには条件がある。それはニュートリノの静止質量がゼロではなく有限で、かつ3種類のニュートリノが異なる静止質量を持つことだ。3種類のニュートリノが異なる有限な静止質量を持つことで、ベータ崩壊や恒星の核融合の第一段階で起きる弱い相互作用でのニュートリノの固有状態とエネルギーの固有状態との間でずれが生じ、ニュートリノ振動が可能となる。 3種類のニュートリノが異なる静止質量を持つことを発見したのが戸塚先生だ。この成果は太陽ニュートリノ問題の解決を促し、素粒子論や宇宙論に多大な影響を与えた。まさしくノーベル賞に相応しい研究成果と言える。 湯川博士の中間子論以来、日本は素粒子研究で世界の最先端に位置してきた。戸塚先生はその流れを継承し後世に残すためになくてはならない存在だった。日本の研究者たちが先生の遺志を継ぎこれからも偉大な研究を生み続けることを切に期待したい。 了 (補足) ノーベル賞受賞の小柴氏、戸塚氏のいずれの研究も、理論家が予測していたことを実験で確認したに過ぎないという指摘がある。実際、超新星爆発からのニュートリノ放出も、ニュートリノ質量とニュートリノ振動も、理論家たちが予測し、それに沿って小柴・戸塚氏のような実験家が実験・観測装置を工夫して確証したに過ぎない。だが以前にも別稿(「知の体験」に掲載)で述べたとおり物理学は数学とは異なる。数学的整合性だけでは理論の正しさは認められない。実験や観測により実証されることで初めて正しい理論として認知される。その意味で、小柴氏や戸塚氏の業績が極めて重要であることは文句なく認められる。ただ現代の素粒子論や宇宙論のように高度に抽象的・数学的で実験観測に巨大な資金が掛かる分野では理論の優位性が増していることは否定できない。その一方でどんなに優れた理論でも実験で確認されない限り正しいと認められないことから、理論家よりも実験家の方がノーベル賞を取りやすいという問題点を指摘する声が少なくない。実際ブラックホールの研究や一般向け啓蒙書で世界的に著名な車椅子の天才ホーキング博士や、ホーキング博士と並び称される天才ペンローズ博士、超弦理論で画期的な業績を挙げているグリーン、シュバルツ、ウィッテン博士などもノーベル賞受賞の見込みはない。日本でも、クォーク理論で画期的な業績を挙げた西島和彦、弦理論の原型を作った南部陽一郎、クォーク・レプトンが3世代あることを予言した小林・益川両氏などノーベル賞受賞者に優るとも劣らない業績を挙げている理論家たちが存在する。ノーベル賞は数ある賞の中でも比較的公平な賞でありそれが権威の源泉になってはいるが、それでも運の良い者が受賞するのであり、受賞していない者の中に受賞者よりも優れた業績を残している者がいることも覚えておいてもらいたい。 |