☆ クローン羊ドリーの死 ☆


井出 薫


 成体細胞から誕生した世界初の哺乳類であるクローン羊ドリーが生後6年で死亡した。
 羊の寿命は11から12年であり、ドリーはその半分しか生きられなかったことになる。ドリーは6歳の雌羊の乳腺細胞からクローン技術を用いて1996年7月にイギリスのロスリン研究所で誕生した。乳腺細胞を提供した雌羊の年齢が6歳、ドリーの死亡時の年齢が6歳、羊の寿命が11から12年。ドリーは、生まれたときにすでに6歳だったのだろうか。
 ドリーが誕生したとき、科学者の間でドリーは何歳かという議論がなされた。染色体の末端にはテロメアという特殊な粒子が存在して、細胞分裂をするたびに短くなっていく。ドリーは生まれたときから、テロメアが普通の羊より短かった。
 しかし、このことを以って、ドリーは生まれたときにすでに6歳であり、6年の寿命だったとは言えない。テロメアがなぜ短縮するのか、テロメアの長さと寿命の関係はどうなっているのか、クローン技術とテロメアの長さにはどのような関係があるのか、このような問いに対して私たちは答えを持っていない。生命の探究は緒についたばかりであり、私たちはまだ何も知らないのだ。

 別の論考で、現状ではクローンの問題は倫理の問題というより技術の問題であると論じた。ドリーの早過ぎる死はそれを裏書した。私たちの技術レベルは、クローン人間の是非を倫理的な次元で論じなくてはならない段階に遠く及ばない。正常に育つという保証が全くないということだけで、現時点ではクローン人間の試みを否定することができる。

 クローン技術は、医療、農業への応用など大きな可能性を持つ。今回のドリーの死を以って、クローン技術を全面否定するべきではない。しかし、私たちの科学は、私たちが期待するほど完全なものではなく、人間の能力には限界があることを知らなくてはならない。

 今年は、鉄腕アトムが誕生した年にあたる。しかし、鉄腕アトムのような優しく賢く正義感に溢れるロボットが誕生する見込みはない。「2001年宇宙の旅」に登場するスーパーコンピュータHAL(1992年に誕生したことになっている)並みのコンピュータが見通せる将来に誕生する見込みもない。アポロが月面着陸に成功して科学技術に対する楽観的な見通しが人々を支配していた時代は遥か昔に去ったのである。1960年代には、21世紀に入る頃には、月や海底に都市が建設され、人口問題も食糧問題も解決されていると予言された。電力はクリーンで海水という無尽蔵の資源を用いた核融合発電で提供されるはずだった。自動通訳機の登場で英語の教師は失業するとまで言われた。だが、どれ一つとして実現したものはない。携帯電話やパーソナルコンピュータなどが予想以上に普及しただけだ。
 現代人は科学技術の成果なしには暮らしていけない。だからこそ、科学技術の現状を正しく認識する必要がある。そのことをドリーの死は教えている。

(H15/2記)


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