☆ 『千と千尋と神隠し』と日本(1) ☆

森 有人


 宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』が、世界のアニメ映画界を席巻。ベルリン映画祭、米国のアニ―賞4部門独占、そしてアカデミー賞のアニメ部門賞の最有力候補に浮上した。八百万の神々の世界に迷い込んだ日本の少女を描いた作品が、何故、世界の人々の琴線に触れ、共感を呼び起すのか?「千尋」という少女が未知の世界でアイデンティティーを探し求める姿は、今や全世界で生活する人の共通の課題なのかもしれない。


 この映画の普遍性―グローバリズム、アイデンティティー

 グローバリゼーション・・。経済好きな日本人なら、「経済の」と冠をつけた言葉をまずイメージするのではないか。政治、経済、社会、そして文化のあらゆる世界で相互のつながりを増大させているのがグローバリゼーションの展開だ。市場原理の地球規模の拡散−。これで一儲けする企業・人があれば、沈む企業・人もある。プラス・マイナス、黒白が明確な経済問題だと議論は手っ取り早い。利害得失で、グローバリズムを只管に賞賛するかと思えば、日本と日本企業・人の"負け組み"は総悲観するか、反グローバリズムの狼煙を上げる。
 だが、個人のアイデンティティー、価値観、文化の次元になると、単純細胞的な議論で済む話ではない。「グローバル化はアイデンティティーの危機をもたらす」−。大上段に振り、大命題をぶら下げるのは良いが、日常生活では問題の実感が得られない。戦後の日本人のアイデンティティーが、「経済ナショナリズムにあった」と、一刀両断に結論づけるのもいかがなものか(里見哲氏紹介の『ナショナリズムの克服』を参照)?
 いえることは、個人にとって国家が所与ものではなくなりつつあることだ。すべて個人のアイデンティティーを帰属させることで国家が成立した時代は、はるか過去のものになった。国家にアイデンティティーを帰属させることで、国家も個人も豊かになれるという確信は、ますます薄れる。それほど、個人のアイデンティティーの地盤は軟弱なものとなりつつある。それは日本に固有の現象でもなさそうだ。
 八百万の神々が湯治に訪れる「湯場」に迷い込んだ少女「千尋」の物語が、欧米人の心を引き付けるのも、現代人にとってアイデンティティーの問題について普遍性もって語りかけているからだろう。
 「千」と「千尋」の名前の意味

 異文化交流をテーマにしたシカゴ在住の企業コンサルタント、ロシェル・カップ氏は、このアニメが全米でヒットした理由を筆者に語ってくれた。第一の理由が、翻訳の見事さだという。米国版は字幕ではなく吹き替え版が公開された。人間の内面を描写した映画は、欧州で受け入れられても、ハリウッド映画に馴れ親しんだ米国の人々に拒絶される、というのが通説でもあった。それを覆すに足る十分な翻訳吹き替えがあったこと。だからこそ、内面のスト−リーが米国の観客にも伝わったという。多国籍企業で働く人のアイデンティティーの問題について著作を持つ同氏の口からは、この映画とアイデンティティーの関係を、聞くことはできなかった。

 むしろ、「千」と「千尋」の名前の意味が何かは、外国人には理解されにくいのではないか?と逆に質問を受けた。映画の中で「千尋」は、湯婆(頭の形が黒柳徹子風の魔女の婆さんで、湯治場を支配・管理している)の魔法で「名前」を奪われ、不思議な異文化世界で「千」という名で働かされている。同じように湯婆に魔法を掛けられ「名前」を奪われ「手下」になっている、「ハク」という少年の精霊は「千」を常に守ってくれる。そんなハクが、「千」の記憶の片隅にぼんやりと漂う。彼女も、泣き虫の子供から、思慮深く思いやりのある大人へと変わっていく。そして、「千」と「ハク」も、自分の名前を取り戻した時、再び現実の世界に戻っていく。ここでは「名前」が個人のアイデンティティーを象徴するキーワードといえよう。
 日本人は「豚」か「千尋」か?

 何をしても非力だった「千」は、「千尋」の名前を取り戻すまでに、相手を理解し、自分で問題を判断し解決できる大人に変身を遂げていく。こうした少女の成長の過程を、バブル崩壊を経た戦後日本の姿になぞらえた海外の論調が多い。

 米国の「核の傘」の下で、対米依存度を拡大しながら重商主義的経済発展を遂げてきた日本。その姿が「千」であるならば、米国主導の原則、規範の拘束から逃れるように、独自の解決法を模索する現在の日本の姿が、名前を取り戻した「千尋」だ、というわけだ(リチャード・サミュエルズ氏、「Newsweek」日本版02年10月30日号)。冷戦後に相応しい等身大の国家としてのアイデンティティーを対外関係の中で確立しつつある―。その象徴的な動きが、従来の日米同盟関係を維持しつつ、自国の利益を追求する北朝鮮外交、イラン外交であるという。

 残念ながら、そうした指摘が該当するほどに、日本が国際社会で確たる針路を見出しつつあるとは信じ難いものがある。戦後の日本の対外関係では、日米安全保障条約の枠組み・制約にあって、つねに平和主義的な「ノーマルな国家」を志向するベクトルが働いてきた。アメリカへの追随と独自路線の関係、中国に対する脅威と友好・相互依存といった一般的通念の延長線上を行き交い混迷する日本の姿である。21世紀に入っても、日本の内・外政の双方で大きな変化を見出すことは難しい。

 冷戦崩壊後、とりわけ「9.11後の世界」は、軍事大国・米国の強引ともいえる対外戦略に。追随か反発かのジレンマに各国が置かれている。その中で、米国と「特別な関係」を維持(自負?)する日本は、ブッシュ・小泉の「変人コンビ」の個性が投影され、国際社会で共存する姿勢を強く打ち出している。対米追随姿勢によって、米国にとって"健気な弟分"を最優先に演じつつも、せこく自国の国益も確保する―。日本のこうした「二重保険戦略」(エリック・ヘジンボサム."Japan's Dual Hedge," Foreign affairs 2002.10)は、今に始まったものではない。まさに、外交、国内政治経済、いずれも外圧に変革を頼り、半世紀以上にわたって自立し得ない戦後日本の限界を構図がそこにある。

 「国家はさまざまな装置によって、個人に忠誠をつくさせる」。国際政治学者、モーゲンソーの言葉だが、そうした「装置」を構成する国家の能力もなければ、「忠誠」を尽くすなどという個人も存在しない。国家の権力欲と、個人のアイデンテリティーの心理的一体感が限りなく希薄な「寂しき国家と個人」。「千と千尋」に描かれた世界と、最も縁遠い国家と個人の関係が、日本と日本人ではないか。その意味でも、「千と千尋」のアイデンティティーの探索というよりは、日本と日本人の姿は、バブル崩壊後の残骸を象徴するテーマパークの陰で「八百万の神々」の食事を貪り、「豚」に変身した「千尋」の両親の姿である。
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(H15/2/9記)

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