『ナショナリズムの克服』 姜尚中、森巣博 集英社新書
森巣氏は、進歩派の小林よしのり氏なのだろうか。 帯びの紹介で、上野千鶴子氏の「治ってしまえばあれがビョーキだとわかる爽快なナショナリズム論」という評が紹介されている。確かに上野氏の指摘どおりの内容である。姜氏は、分かりやすく、ナショナリズムの本質を語っている。森巣氏も「再想像の共同体」、「無族共和」などのキーワードを提起するなど、積極的な発現が目立つ。 ただし、全体の内容は、身内同士の内輪話との印象を免れない。姜氏の在日としての悩み多き青春時代や、真摯な考えが述べられているのが救いであるが、「新しい教科書を作る会」などの論敵に対する批評は、単にレッテル張りに過ぎない感じを与える。真にナショナリズムの問題を考えるためには、姜氏の先の著作である『ナショナリズム』岩波書店に遠く及ばないできである。確かに、日本も大幅に難民を受け入れるべき努力が必要だろう。しかし、自身オーストラリアに在住しながら、日本は数百万レベルで難民をうけいれるべきという発言や、保険料を払いながら、三割を自己負担する必要のある健康保険制度に団塊の世代は、なぜ怒らないのかという指摘をする森巣氏の言動に、違和感を覚える人は多いだろう。むしろ好き勝手で無責任な団塊の世代が良くぞ若者から非難されないというのが日本の実態だ。若者は、将来の年金受給すら危ぶまれているのである。 石原氏の「第三国人」発言や、日本政府のアフガニスタン難民の受け入れ拒否などは、大いに批判されるべきことであるが、加藤典洋氏や江藤淳氏に対する評価は、単なる張り雑言のレベルであまりにも一方的な内容となっている。本書はどのような読者を想定しているのだろうか。客観的にナショナリズムについて判断したいと望む読者や、ナショナリスト的考えを持つ読者に対して、ナショナリズムを克服するように説得できうる発言は、限られている。読者は、江藤氏や西尾氏などの日本のナショナリストは、海外留学でのルサンチマンのために生じたと素朴に信じるのだろうか。安易に情動に訴える森巣氏の言動は、小林よしのり氏に通ずるものを感じる。 森巣氏の経歴を読むと、テッサ・モーリス・スズキ氏と関係があるのではないかと思われるが、必要以上楽屋裏の話や森巣氏の履歴が語られ、対話の中でもスズキ氏が登場するのにその点が語られていないのも不思議である。結論を言うと、本書ではナショナリズムの克服はできない。特に森巣氏の内輪受けを狙ったかのような発言は鼻を突く。数々の名著のある姜氏が一方の話者であるだけに、期待を裏切る内容である。なぜなら、ナショナリズム、レイシズムに走る多くは、マジョリティの底辺に属する場合が多いが、二人の言説は、在日化したマジョリティの心情をつかみ得ないレベルの議論に終始しているからである。本書は、一部シンパにとっての良書ということになろう。『マックス・ウェーバーと近代』の中で大塚史学に対して冷静かつ明確な分析をした姜氏の切れ味は一体どこに行ってしまったのだろうか。姜氏を起用しながら、この程度の内容とは、好著が多い集英社新書にしては、お寒い編集だと言わざるを得ない。 里見 哲 |