☆ インターネットと言葉の暴力性(その5)〜話し言葉と書き言葉(第1回)〜 ☆
〜言葉の意味と言語ゲーム〜


(前書き)

 話し言葉と書き言葉の関係を論じるとき、話し言葉と書き言葉という記号そのもの−生活や芸術・学問の道具としての記号そのもの−と、言葉の使用とを明確に区別して議論することが必要だ。だが、第1回では、この区別を曖昧にしたままに、両者の位相関係を概観する。

 話し言葉と書き言葉の役割は異なる。プラトンは、話し言葉こそ真実を語るものであり、書き言葉は話し言葉を記録する二次的なものに過ぎないと主張した。デリダは、これを、西洋形而上学のドグマ、話し言葉中心主義であると論難する。デリダは、話し言葉中心主義は、西洋が表音文字であるアルファベット文字を使用することから来ていると論じるが、古代中国でも、書かれたものは真実の残りかすに過ぎないという考えがあるから、デリダの分析は些かうがちすぎというものである。
(注)デリダの目標は話し言葉中心主義の脱構築であり、話し言葉中心主義の起源を問うことではない。表音文字という概念を持ち出すのはデリダのレトリックに過ぎない。

 通信手段が乏しかった時代には、数学を除けば、書き言葉の役割は話されたことを記録することに限定されていた。プラトンの主張はそういう時代の産物だ。

 話し言葉は書き言葉で記述されない限り、消え去ってしまう。だが、書き言葉は話された内容をすべて写し取ることはできない。語り手は、明確に発語された言葉以外にも様々な手段で相手に訴えかける。声の調子、表情や身振りなど様々な補助的手段が使用される。関連情報を完全に書き言葉で写し取ることはできない。

 書かれたものは常に誤解される運命にある。書かれたものは長持ちする。だが、書かれたときの状況は消滅している。だから、読み手が解釈しない限り書かれたものには意味がない。「明日出かける」と書かれた紙片を手にしても、それが何を意味しているか分からない。あれこれと情報を集めないと意味を知ることはできない。あとは、適当に想像を膨らませて、話しをでっちあげるしかない。

 話し言葉は儚いが確実だ。話し手は、聞き手の様子をうかがいながら、慎重に言葉を選択して、身振りや表情なども使って、相手の理解を求めることができる。聞き手が質問することで双方の理解が深まることもある。話し言葉は意味が明確である。

 ここから、話し言葉こそが真実を語るものであり、書き言葉は、話し言葉に秘められた真実を不完全に記録するものでしかないという思想が形成される。

 だが、話し言葉こそが真実を語るという観念はデリダが指摘するとおりドグマでしかない。数学という言葉は、書き言葉であることが本質だ。数式を声に出して読んでも大した意義はない。数学は書かれた記号にだけ意義がある。数学に限らず、近代以降の物理学など自然科学では書かれた記号こそがその本質をなし、話し言葉は研究者同士の相互理解や素人への説明のための補助的な手段にすぎない。ここでは、話し言葉の優位性は失われている。少なくとも、学問の世界では、話し言葉と書き言葉の境界は曖昧であり、両者の優劣を問うことは無意味であることが示されている。

 通信手段が飛躍的に進歩した現代では、日常生活においても、話し言葉と書き言葉の境界が曖昧になっている。電話で遣り取りされるのは話し言葉だが、相手の表情や身振りを見ることはできない。利用できるのは声の調子や間だけだ。テレビ電話ではより豊富な補助的手段が利用できるが、面と向かって話しをするようなわけにはいかない。電子メールで使用されるのは書き言葉だが、電話での遣り取りに近いものがある。チャットになるとさらに電話に近くなる。

 ビデオに撮られた講義や演説は話し言葉だろうか。話し言葉の持つ瞬間的な性質はここにはなく、長期保存が可能となっている。電子的な媒体に記録された話し言葉は、話し言葉と書き言葉の中間的な存在と考えるべきだろう。

 このように、現代では、学問においても、日常的な言葉の使用においても、話し言葉と書き言葉の境界が曖昧になってきている。この傾向はこれからも変わることはないだろう。

 しかしながら、話し言葉と書き言葉の差異が存在しないわけではない。ただ、両者の違いが何か、それが何に基づくのか、それが何を含意するのか、これらの問題にこれまで十分な注意が払われてこなかった。そこで、現代という場における、話し言葉と書き言葉の関係を論じていくことにする。 続く

(続く)
(H15/4/19記)


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