☆ インターネットと言葉の暴力性(その3) ☆


 歩行中に車を避けようとして身体のバランスを崩し、人にぶつかりけがさせてしまったとしても、それは事故であり暴力ではない。だが、けがをさせることを意図して、人にぶつかれば暴力である。

 暴力行為は、行為の主体がそれを意図したときに初めて成立する。意図する主体が存在しないとき、暴力は存在しない。

 (注)「意図」とは何か、「意図する」とはどういうことか、それは哲学の大問題である。誰もが納得する答えを与えた者はいない。「主体」も同じである。ただ、言えることは、「意図しない主体」は存在しないということである。「主体」とは意図する主体のことである。

 しかし、言葉の暴力は違う。言葉の暴力は主体を欠如したところで成立つ。プロ野球の試合で相手チームの韓国人選手の活躍で、贔屓のチームが破れたとしよう。帰ってくる選手に対して「お前なんか韓国に帰れ。」と野次を飛ばしたとする。野次を飛ばした者は、韓国人を差別しているのではない。日本人の小柄な選手であれば、「ちび、ばか」とでも言ったであろう。戦後の民主主義教育を受けた者であれば、人種差別は許されないことを知っている。野次を飛ばした者も、贔屓のチームが負けたことが悔しくて、韓国に帰れなどと言っただけで意識して差別をしたわけではない。潜在意識のなかに韓国人に対する差別意識があると解釈することはできるが、解釈に過ぎない。ここには、主体が欠けている。だが、それでも言葉の暴力が成立している。

 言葉の暴力は主体なしに成立するものである。言葉の暴力は、主体による暴力を可能とするものなのである。

 主体=意図する主体は暴力行為において定立される。言葉の暴力は、主体が定立される前から在る。それは、暴力行為を遂行する主体を可能とする場としてある。

 言葉はその無限ともいえる伝達可能性−それは第一回に記述した交換可能性とこれから論じる書き言葉に基づく−により社会という場を形成する。そして、そこで言葉の暴力が顕在化する。だが、そこには主体は現れていない。言葉の暴力が成立する場で、意図する主体が登場可能となる。そして、言葉の暴力以外の暴力が、主体の行為として把握されることになる。言葉の暴力に関して、主体が想定されるのは、言葉の暴力が可能とした主体の暴力からの遡及的な考察による。ときとして、潜在意識あるいは無意識なるものが隠された主体として想定されるが、そのようなものは存在しない。

 言葉の暴力が、主体の暴力を可能とする。尤も、これは言語論理的な次元においての話しである。発生論的に言えば、言葉の暴力とは独立して、他の暴力形態が存在しただろう。だが、問題は、それが暴力として把握されるのはいつかということなのである。人間は、言葉の暴力が成立している場を通じて、先行了解的に、「暴力」概念を了解する。そのとき、私たちは、初めて、暴力を暴力として捉えることになる。言葉の暴力が成立つ場を先行的に了解することを通じて、私たちは主体の暴力という概念に到達するのである。

 だが、ウィトゲンシュタインの読者ならば、この議論には意義を唱えるだろう。ハイデガー、ガダマー的な解釈学的な了解なるものは潜在意識と同じように仮象でしかない。暴力の可能性を論じるには、「暴力」という言葉が流通する言語ゲームをみなければならない。これがウィトゲンシュタイン的な立場である。本稿での議論も言語ゲームという場に移すことで初めて十分な理解が得られるだろう。

 そこで、次に、言語ゲームを簡単に論じておこう。

(続く)⇒その4

(H15/3/14記)


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