☆ インターネットと言葉の暴力性(その4) ☆
〜言葉の意味と言語ゲーム〜


 言葉の意味とは何かを考えてみよう。一番初めに思いつくのは、言葉が指している対象が言葉の意味だという考えである。『「机」とは机と呼ばれるものを指し示している。だから、「机」の意味は机というものだ。』という考えである。これを意味の対応説あるいは意味の指示説と呼ぶことがある。

 だが、「痛い」とは何を指しているのだろうか。痛みという感覚?だがそれはどこにある?痛んでいる場所、そこを私たちは指し示すことができる。腹部、歯、頭などなど。だが、漠然と不安を感じるなどというときには、どこに何を感じているのか定かでない。だから、私たちはこういう場合、「どこが不安なのか」と質問されると答えに窮する。不安障害やうつ病を煩ったことがある人は症状を説明することが如何に難しいか分かるはずだ。心と呼ばれる領域に関わる言葉が何を指し示すか明らかにすることは難しい。

 足が痛いとき、私たちは「足」に痛みを感じる。しかし、現代人は、心は脳の働きだと信じている。だとすると、なぜ、脳に痛みを感じないで、足に痛みを感じるのだろう。これは謎である。足をけがしたとき、足ではなく頭が痛くなったのでは役に立たない。これは一つの答えである。だが、それは「なぜ頭ではなく足に痛みを感じるのか」という問いの答えにはなっていない。

 このように、心あるいは精神などと呼ばれる領域に関わる言葉を調べると、単純な、言葉の意味の指示説あるいは対応説には疑問が沸いてくる。

 言葉の意味を考えるとき、単語の意味を第一に考えるのではなく、文の意味を考えなくてはならない。これが、20世紀哲学特に英米を中心として発展してきた分析哲学の教えである。だが、単語ではなく、文を考えたところで、対応説が妥当な理論になるわけではない。「私は桜の花を眺めた。先ほどまでの憂鬱な気分は吹き飛んだ。」これは何に対応しているのだろうか。言葉に先立つ何かがあり、それに対応して言葉があり、それが言葉の意味をなすという考えが如何にあやしい考えであるか、この文が対応しているものを探そうとすればすぐに分かるだろう。

 数学も対応説が疑問であることを示す。「1+1=2」これは何と対応しているのだろうか。私たちの現実世界とは別の数学世界があり、1とか2とか+はそこに存在している。1+1=2はその世界での真理であるという考えもある。これを数学的プラトニズムなどと呼ぶことがある。だが、そのような世界と私たちの世界との関係はまったく不明である。そのような不可解な世界に関して、私たちが正しい認識を得られるということは不思議である。数学の言葉が何かを指示すると考えるから、このような不可解な事態に陥る。言葉の意味は言葉の指し示すものなどではない、と考えれば、このような不可解な事態に陥ることはない。

 「美」とは何を指すだろう。美しい花、美しい女性、美しい風景などを「美」という言葉が指し示すのか。これはおかしい。美は美しい花とは違うはずだ。花と美はまったく異質な概念だからだ。プラトンは、そこで、「美」という言葉は、現世を越えたイデア界にある「美」そのものと対応すると考えた。そして、哲学者=「「叡知」を愛する者(ソフィアをフィレインする者)」は、このイデア界の認識を目指す者のことであると主張した。

 プラトンのイデア説は弟子のアリストテレスによって空論であると批判された。だが、アリストテレスも、言葉は真の存在を指し示すものであると考え続けた。彼はイデアの代わりに「形相」(エイドス)をその理論の中心に据えただけだ。超越的なイデアは消えたが、さまざまなものに内在するとされる不思議なエイドスなるものが残った。言葉の対応説からアリストテレスも抜け出していない。

 中世のスコラ哲学の普遍論争も、言葉の意味の対応説を前提にしている。スコラ哲学者は、普遍的な概念を表現する言葉の意味するものが実在するかどうかについて論争を繰り広げた。たとえば、個々のリンゴとは独立した「リンゴそのもの」−リンゴ性のようなもの−が実在するかどうかが議論された。この問題そのものは形を変えて現代にも継承されている。外延論理学と内包論理学との論争がそれに当たる。だが、個々のリンゴとは独立して「リンゴ性」なるものが実在するかどうか、などという論争はくだらないと思うだろう。現代においては、「スコラ的」という表現は他人の意見を批判的に論評するときに使用されるが、それも無理のない話しだ。いずれにしろ、スコラ哲学には、実在論、概念論、唯名論など様々な立場があるが、どの立場も言葉の意味の対応説に立脚して議論を展開している。

 近代哲学の最高峰であるカントは、アリストテレスの実体主義的な範疇論を批判して、認識の形式としての範疇論を展開した。それにより、言葉の意味とは、言葉が指し示す真存在のことではなく、実在を認識する形式であることが示された。これは、カントが自負したとおり、哲学におけるコペルニクス的な大転回だった。だが、カントの偉大な思想の核心は、すぐには理解されなかった。カント自身も、言葉の意味の対応説から完全に抜け出していたわけではない。

 このように、言葉の意味の対応説は、常識だけではなく、哲学の世界でも支配的な考えであった。これを克服することが20世紀哲学の課題であったと言っても過言ではない。

 若きウィトゲンシュタインは、その著「論理哲学論考」で、(文としての)言葉の像理論を展開して、文は世界の存立し得る事態を表現するものであると論じた。若きウィトゲンシュタインは、フレーゲやラッセルの影響のもとで単語より文を重視するという点では、19世紀哲学より一歩前に進み出ていた。しかし、依然として、言葉の意味の対応説から脱してはいなかった。

 ウィトゲンシュタインは、一度は放棄した哲学の研究へ復帰したとき、「論理哲学論考」の言語観は間違いであることを認識する。言葉の意味は、言葉が指し示す事態などではない。言葉の意味が何かは、言葉がどのように使用されているかを見ない限り何も言えない。(注1)

 言葉が何かを指し示していると考えることができるときもあるだろう。「机はどこにありますか。」と尋ねられたときに、私が机のある方向を指差し、「机はあそこにあります。」と回答したならば、確かに、私は、「机がそこにある」という事態を指し示したと言える。「机」という言葉は、そこにある机という物を意味していると言って間違いではない。だが、尋ねられたとき、「申しわけありませんが知りません。」と答えたならば、私は何も実在的なものを指し示していない。「私の知識(机の場所がどこか知らないという知識)」を指し示したのだと強弁することもできなくないが、「私の知識」なるものが何であるのか、どこにあるのか、まったく不明である。

 さらに、数学を思い起こせば、単独の言葉が何かに対応しているなどと考えることはできないことが分かる。「1+1=2」は単独で意味を持つものではない。「1+2=3」、「1+3=4」、「1,2,3,4・・・は自然数の数列である」などという無限に続く命題の集合、数論の公理体系など、数学の広範な領域との関連において初めて、「1+1=2」という言葉(命題)の意味は明らかになる。数学の体系から切り離したら、式は単なる記号の無意味な組み合わせに過ぎない。

 言葉がどのように使用されているか、それが問題なのだ。机を探す、机の場所を教える、回答する、数学を教える、数学の定理を書き下ろす、など、言葉を使用して何をしているのか、何をしようとしているのか、これが問題なのであり、言葉の意味が問題なのではない。

 「その言葉の意味は何ですか」という問いは、問題となっている言葉をどう理解すればよいのか、どう使用すればよいのか分からない、だから教えて欲しい、ということを表現している。言葉の意味なるものが問題の本質なのではない。「意味」という言葉は、言葉の使用の一部をなすものに過ぎない。つまり、言葉をどう理解すればよいのか、どう使えばよいのか分からないときに、「その言葉の意味は何ですか?」と尋ねることで、私たちはそれを知ることができる。「意味」とは特別なものではなく、私たちの言語使用の現場で役に立つ表現のひとつに過ぎない。

 「「美」とは何か」これも「美」という言葉がどのように使用されているか、どのように使用したいか、それをみなければ答えは得られない。そして、この考えてみれば当たり前とも言えることが、プラトン以来の西洋哲学では看過されてきた。「善」、「美」、「真」などは、言葉の使用とは関係なく、絶対的な意味を持ち、絶対的な何かを指し示すと暗黙のうちに考えられてきた。

 ウィトゲンシュタインなど20世紀の優れた哲学者たちは、表現方法はさまざまであるが、この西洋哲学の根本的な欠陥を指摘した。

 ウィトゲンシュタインは、言葉の使用を見ることの重要性、言葉の使用を見ることで哲学的思考における混乱が解消されること、これらを示すために、言葉が使用されている現場を「言語ゲーム」と表現した。(注2)

 言語ゲームとは、とりあえず、ウィトゲンシュタインにとっては、哲学的問題を解明ああるいは解消するための道具に過ぎない。だが、言語ゲームという発想は、単に哲学的問題を解消するためにだけ使うことができる道具ではない。安易な一般化を戒めてきたウィトゲンシュタインの意志に反することになるかもしれないが、言語ゲームという手法はひろく応用が利くものである。そこで、次に、言語ゲームの応用に議論を移すことにする。だが、その前に、書き言葉の問題を論じておこう。


(注1)ウィトゲンシュタインは、「言葉の意味は言葉の使用である」と主張したと言われることがある。これはウィトゲンシュタインの考えを正しく伝えるものではない。ウィトゲンシュタインは、言葉の意味なるものを論じるよりも、言葉の使用をみることが重要であると考えた。言葉の使用をみることを通じて、哲学的問題の大部分は混乱した思考が生み出した疑似問題に過ぎないことを示そうとした。ウィトゲンシュタインの哲学的営為の目的は、混乱した思考の産物を解消することであり、言葉の意味理論を提示することではない。ウィトゲンシュタインは、言語行為論の提唱者オースティンと同じように、一般論として語ることができる言葉の意味理論など存在しないと考えていた。だから、「言葉の意味とはその使用である」とウィトゲンシュタインが主張したというのは正しい見方ではない。なお、意味の対応説的な観点に留まっているとはいえ、「論理哲学論考」においてすでに、ウィトゲンシュタインは言葉の使用を調べることが重要であることを注意している。ただ、それが十分に展開されなかった。

(注2)ウィトゲンシュタインは、数学も言語ゲームの一つの事例であると考える。この点に関しては異論が多い。数学は非常に確実で客観的な性格を持つもので、ウィトゲンシュタインの言語ゲームという柔らかい発想に組み込むことはできないのではないかという疑問がある。だが、数学も使用が問題であることには変わりはない。孤立した数学体系は如何なる意味も持たない。それが現実の世界で使用されることで初めて意味が決まる。たとえば、「1」は、それがどのように使用されるかによって、初めて意味が確定する。「1」に相当するものを「2」と書くことも、「α」と書くこともできる。ただ、私たちは現実において「1」を「1」として使用している。その事実が「1」を「1」足らしめている。ウィトゲンシュタインの数学の哲学は確かに問題が多い。しかし、ウィトゲンシュタインの哲学的営為をよく調べればその真価が理解されると思う。

(続く)⇒

(H15/3/29記)


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