☆ インターネットと言葉の暴力性(その2) ☆


 言葉の暴力性を抑制する方法を論じる前に、言葉の暴力性とは何かを考えてみよう。

 オースティンは、記述主義的言語観−言葉は世界を記述するものであるとする考え−を批判して、言語行為論を提唱した。言葉を用いて、人間は、世界を記述するのではなく、行為を遂行するのである。さらに、オースティンは言語行為を三つの段階に分けて考える。(注1)

 オースティンの言語行為論は、様々な批判を浴びたが、いまでも言語と言語使用を考えるうえで無視することができない有力な視点として広く引用されている。そこで、私も、オースティンの理論を援用しながら、言葉の暴力性を分析する。

 言語行為には三つの段階がある。例として、結婚を決断できない優柔不断な男Aの態度に業を煮やした女Bが、こんな発言をしたところを想像してみよう。

「私はあす午後1時に両親と一緒に新宿駅南口改札にくる。あなたも必ず来て。」

(1)発語行為(locutionary act)
 意味ある言葉を使用して聞き手の注意をこちらに向けさせるという行為である。話し言葉は、物理的には空気振動に過ぎない。私たちの周りには言葉以外の様々な空気振動つまり音が充満している。また、第三者同士の会話など無関係な言葉もある。話し手が聞き手に向かって発した言葉は、それが意味をもっていれば、特別な役割を果たす。聞き手は、それを単なる音でも第三者同士の会話でもなく、自分に向けて発せられた言葉であることを理解する。それは聞き手に何らかの応答を迫る。言葉を使用して、聞き手に注意を向けされるような行為が発語行為である。この段階では、聞き手が注意を向ければ、行為は成功裏に遂行されたことになり、言葉の内容は問題とならない。

(2)発語内行為(illocutionary act)
 話された内容が示す行為である。上の例で言えば、女Bは、言葉を用いて『(駅の改札口にくることを)約束する』という行為と『(聞き手に対して、駅の改札に来ることを)要請する』という行為を遂行したことになる。発言された言葉の内容から最も明瞭にみてとれる行為であり、言語行為の中核となるものである。

(3)発語媒介行為(perlocutionary act)
 女Bは、この言葉で、優柔不断な男Aに結婚を迫っている。男Aは、この言葉から、Bの決意、暗黙の強要を感じ取るだろう。発話された言葉の内容から直接読み取ることはできないが、言葉の内容を介して、相手に対して一定の効果を及ぼす行為が発語媒介行為である。

 言葉の暴力性を、言語行為の三つの側面に照らして論じてみよう。

 発語行為における暴力は、たとえば、大声で話す、脅迫するような口調で話す、卑猥な言葉を投げつける、などという手法で遂行することができる。この例で言えば、女Bは、周囲に聞こえるような大声で話す、Aを睨みつけ身体を震わせながら話す、などという手法でAに圧力をかけることができる。この場合、表現と内容はどうでもよい。「私をどうするつもり。」、「いいかげんにしてよ。」、「私はあなたが好きだと言ったから、まとまりかけていた話を断わったのよ。」どの表現でもAに対して同じような圧力を与えることができる。これが、発語行為の段階における言葉の暴力である。これは、言葉の内容とは独立した暴力であり、物理的な暴力に近い性質を持つ。

 発語内行為における暴力性は、言葉の内容そのもので表現される。「私を裏切るようなことをすれば、私はあなたの会社に何もかも話しをして、あなたを破滅させてやる。」このような言葉で、発語内行為としてあからさまに言葉の暴力を発動することができる。
 発語内行為としての暴力は、度が過ぎれば、法的に恐喝あるいは名誉毀損などで罰せられる。それに対して、発語行為としての暴力、並びに後述の発語媒介行為としての暴力は、物理的な暴力行動や他の状況証拠が伴わない限り法的に罰することは容易ではない。発語内行為による暴力は、暴力の内容が明瞭で合理的な言葉の暴力である。

 発語媒介行為による暴力は、上の事例そのものが示している。事例にとりあげた言葉の内容そのものは少しも暴力的なものではない。この言葉が、仲のよい恋人の間で交わされたものであれば、プロポーズの言葉である。しかし、この事例では、女Bは男Aに結婚を強要しており、言葉の暴力を発動したことになる。
 しかし、法的観点からすれば、他の状況証拠がなければ、この言葉だけで、BがAに結婚を強要したと認定することは困難だろう。発語媒介行為に基づく暴力は、高度に状況依存的であり黙示録的である。発語内行為に基づく暴力のように明瞭でも合理的でもない。言語論理上での合理性の欠如という点では、発語媒介行為による暴力は、発語行為の段階における暴力と似ている。しかし、後者が言葉の内容に依存しないのに対して、前者は、言葉の内容によりその効果が決定される。同じような口調、態度だったとしても、女Bが「私のことが嫌いなの。」と言ったなら状況は全く異なるものとなるだろう。

 無言電話による嫌がらせ、シカト(無視)による虐め、これらは「無言」という発語−言葉があるべきところでそれが欠如している、つまり、ゼロ記号の発語があると見なすことができる−による言葉の暴力である。これも、発語媒介行為に基づく言葉の暴力と考えることができる。(注2)

 発語内行為による暴力と発語媒介行為による暴力との違いをより明確にするために、在日朝鮮人Aに日本人Bが次のような二つの言語表現で言葉の暴力を加える場合を検討してみる。

@BがAに「北朝鮮は日本人を拉致した。だから、我々がお前を拘束しても、お前は文句を言えない。」と言う。
ABがAの背後から「北朝鮮人、北朝鮮人」と軽蔑したような口調で呟く。Aが「何だ。」と言い返すと、Bは無視して何も言わない。Bはこのような行為を繰り返す。

 @の事例は、発語内行為による暴力である。これに対して、Aは発語媒介行為による暴力とみなされる。Aの言葉の内容自体は、@と異なり、直接的には暴力性を持つものではない。状況がそれを暴力とするのである。

 @は合理的規準により暴力であることを認定できる。このような場合、Aは言葉で、自分に向けられた言葉に合理的に反論することができる。たとえば、次のように主張することで、Bの発言に反論することができる。
 「私は日本で秩序を守り生活をしてきた、一度として日本人に暴行を加えたことはない。日本人拉致事件にも一切関知していない。従って、私が拘束されなければならない如何なる理由もない。」

 これに対して、Aの場合は、合理的な反論は困難である。Aが蔑むような口調で「北朝鮮人」という言葉を繰り返すだけで、Bが何を言っても返答しない場合には、Aの言葉に対して、論理的に有効な反論をおこなうことはできない。このような場合には、次のように言うことが有効な反撃となるだろう。

 「私のおじいさんは戦前日本に強制連行され、日本人に殺された。」

 この言葉は、Aの「北朝鮮人」という言葉と論理的なつながりはない。だが、Aのような事例では、Bにとってはこのような言葉を投げ返す以外、有効な反撃手段を考え出すことは難しい。司法に対して、状況証拠を示して、嫌がらせをされていることを論証して、相手の行為を止めされることは可能である。だが、これも、また、相手の言葉に対する論理的な反論ではない。

 事例Aで、Aが含意していることは、「北朝鮮は野蛮であり、北朝鮮人も野蛮である。」というようなことである。もし、このことを発語内行為としてAが明瞭に語っていたならば、Bも合理的に反論することができる。

A:「北朝鮮は日本人を拉致した。北朝鮮は野蛮な国で、北朝鮮人は野蛮だ。」
B:「それは違う。日本の方こそむしろ野蛮だ。私のおじいさんは日本に強制連行された挙句に日本人に虐殺された。拉致事件だけをとりあげて北朝鮮が野蛮だと言うならば、日本は遥かに野蛮だ。」

 この事例から、発語内行為として表現された言葉の暴力に対しては、発語内行為により合理的に反撃することができるが、発語媒介行為として遂行される暴力には、言葉による合理的な反論は一般的に不可能であることが分かる。発語媒介行為による暴力は、発語内行為による暴力とは大きく性質が異なる。

 これまでの議論を纏めておこう。
@言葉の暴力性と、その発現としての言葉の暴力には、言語行為の様々な段階における行為の差異に照応して、幾つかの種類がある。
A発語内行為による暴力は、合理的な規準により、その暴力性を認定することができる。暴力を振るわれた側は、それに対して、使用された言葉の内容に則して、発語内行為により合理的に反論することができる。また、度が過ぎれば、言葉の内容だけで、(たとえば、それを録音したテープを証拠として提出することで)相手を恐喝あるいは名誉毀損で告訴することができる。
B発語媒介行為に基づく暴力性は、暴力性を認定するための合理的な規準がない。そのために合理的な反論は困難であり、暴力を振るわれた側も、発語媒介行為的な手段で反撃するか、発語行為として物理的な暴力に近い形で反撃するしかない。法的にも、他の状況証拠がない限りは、発語媒介行為による暴力を恐喝や名誉毀損で告訴することは一般的には難しい。

 ここから、発語媒介行為に基づく言葉の暴力は、合理的、法的に解決・抑制することが困難で、過激な争いになる危険性が高いという結論を導くことができるように思えるかもしれない。また、この観点から、民族紛争やインターネットにおける言葉の暴力性について論じることができるように思えるかもしれない。
 しかし、そのような結論を下すには、まだ解決するべき問題が山ほど残っている。ここでの議論は完全なものにはほど遠い。オースティンの言語行為論には多くの批判がある。ウィトゲンシュタインやデリダなら、オースティンのように言語行為を分類すること自体に疑念を表明するだろう。

 さらに、本稿では次の重要な問題が議論されていない。
@オースティンの言語行為論は主として話し言葉によるコミュニケーションに適用されるものであり、書き言葉は埒外である。デリダが指摘するように、書き言葉と書き言葉によるコミュニケーションは、話し言葉と話し言葉によるコミュニケーションの単なる写しではない。それゆえ、書き言葉における言葉の暴力性を論究しなくては不完全である。
A「キャッチボールをしていて、手許が狂ったために、相手の顔面に硬球をぶつけてしまったとしても、それは事故であり、暴力ではない。しかし、意図して、相手の顔面を狙ったのであれば、それは暴力である。同じように、言葉においても、言葉を使用した側が、相手に危害を加える意図がなければ、暴力とはならない。」このように考えられるだろう。しかし、私は、これは間違いであると思う。法的な係争となれば、意図の有無が争点となるだろう。しかし、言葉の暴力性とその発現としての言葉の暴力を論じる場合には、意図と意図する主体の存在は、暴力であることの必要条件ではないというのが私の考えである。言葉の暴力は匿名性を持つものであり、本質的に意図する主体なきものところで成立するものであると考える。もちろん、これは慎重な吟味を要することである。いずれにしろ、言葉の暴力が成立する条件を検討しなくては、言葉の暴力性に関する議論は不完全である。

 他にも論じるべきことは多数ある。だが、とりあえず、上の二つの問題に焦点を当てる。

 二番目の問題、言葉の暴力が成立するための条件から議論を始めよう。

(続く)⇒その3

注1
『言語と行為』J.L.オースティン(坂本百大訳)大修館書店 1978
なお、本稿で展開されている言語行為論の記述は、オースティンの原典の厳格な引用ではない。ここでの論述は、オースティンや彼の後継者であるサールなどの著作から汲み取った私なりの言語行為論に基づくものである。

注2
これは、発語媒介行為による暴力ではなく、発語行為の段階での暴力であると考える人がいるかもしれない。しかし、発語行為の段階の暴力は言葉の内容に依存しない。無言の暴力性は、無言であるという言葉の内容−内容の不在という内容−に基づく。それゆえ、発語媒介行為という段階で捉えるべきである。なお、「無言」の暴力については項を改めて再論する。



(H15/3/4記)


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