☆ インターネットと言葉の暴力性(その1) ☆


 よい言葉は人を生かす。悪しき言葉は人を傷つける。言葉には守る機能があるが、攻撃する機能もある。
 インターネットの世界に分け入ると言葉の攻撃性が目立つ。掲示板では絶え間なく罵りあいが起きている。下劣なメール、人を傷つけることだけを目的とするメールが飛び交っている。不愉快なメールを受け取る機会が少なくない。だが、不愉快なメールに腹を立てている自分自身が友人や同僚に不愉快なメールを送っていることに気が付く。後悔して、どう謝ったらよいかと悩むこともある。謝る機会があればよいが、そのまま、謝る機会がないままになってしまうこともある。なぜ、インターネットは言葉の攻撃性を先鋭化させることになるのだろう。

 インターネットでは、相手の顔が見えない、声も聞こえない。人は、顔を合わせて話しをするとき、無意識のうちに相手の表情や声の調子に配慮する。相手が不快な気分にあることに気が付くと、自然と話す内容や話し方が変わる。めったなことではけんかにはならない。しかし、インターネットには、こうした気遣いのメカニズムが欠けている。

 これだけが、言葉の攻撃性を亢進させる理由ではない。手紙や葉書も相手の顔は見えない。しかし、インターネットのように罵りあいになることはない。みずから望まなければ、友や恋人との別れに繋がることはない。そこに距離があるからだ。インターネットは速い。メールはすぐに相手に届く。相手の反応も速い。メールを送ったかと思うとすぐに返答が来る。送った文面を添付して「このばか。こういうのがばかの能書きの典型⇒」というようなメールが。人はインターネットの世界では相手との間合いが量れない。インターネットは人が距離を喪失した世界だ。そこでは、否応なしに言葉の攻撃性は高まる。

 インターネットは手段としての言葉の機能を極限にまで高める。言葉の最も重要な役割は、メッセージを確実に伝えることとメッセージを確実に記録保存することだ。インターネットは、いずれの面からもみても最良の媒体だ。

 しかし、最良の媒体において、攻撃性が著しく高まり、その一方で守るという機能が消えうせてしまうということは、言葉が本質的に暴力的なものであることを示唆する。

 言葉の暴力性は言葉の非対称性に基づく。話し手と聞き手、書き手と読み手、その間に横たわる非対称性は解消されることはない。聞き手は話し手に、読み手は書き手になることができる。しかし、交換可能性は非対称性を解消しない。非対称性は交換可能性を通じて限りなく反復して増殖していく。言葉は本質的に暴力的であることを免れない。

 言葉は権力を打倒する最大の武器だが、その権力を打倒する武器が新しい権力を生み出す。権力も、権力を打倒する力も言葉の非対称性を同じように利用する。権力というゲームは言葉の非対称性の上になりたつ。そして、権力は言葉の非対称性を露わに暴き立て、言葉の暴力性を解き放つ。

 私たちは、これまで、言葉の暴力性を無意識のうちに様々な方法で制御してきた。

 顔を合わせて話し合うとき、人は相手の表情、声の調子、周りの場景などさまざまな周辺情報を暗黙のうちに利用することで、言葉の暴力性を緩和する。自然の中で語り合うことで人は相手と親しくなる。真の友情や愛情は自然の中で培われることが多い。自然の中には利用できる周辺情報が豊富にあるからだ。
 旅行にも同じ効果がある。見知らぬ土地は豊富な周辺情報を含んでいる。恋人たちは見知らぬところへ旅行したがる。恋をする者は、無意識のうちに、相手とより親しくなることができる場がどこにあるかを感知する。そこでは、言葉の暴力性は治められ、人の絆が強くなる。

 手紙では、書き手と読み手の間に横たわる時間的・空間的距離が、言葉の暴力性を希薄化する。

 インターネットには、言葉の暴力性を制御する手段がない。メッセージの伝送媒体として文字だけでなく、画像、動画、音声などマルチメディアを用いることで、言葉の暴力性を緩和できると思われるかもしれない。だが、限界がある。インターネットの世界に入りこむとき、私たちの目と耳は小さな画面へと注意を集中させる。目も耳も狭いところに閉じこもる。新しい伝送媒体は文字の暴力性を減少させるが、その代償に、新しい伝送媒体が新しい暴力性を付け加える。どのような媒体も、媒体の組み合わせも、距離を作り出すことはできないからだ。

 パーソナルコンピュータの画面上に繰り広げられる見せ掛けの広がりではなく、豊富な周辺情報と人に時間的余裕を与える距離がなければならない。それはどのようにすれば可能なのだろうか。

(続く)⇒その2



(H15/2/21記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.