☆ 哲学を学ぶことの意義 ☆

井出 薫

 「哲学は役に立つのか」と問われることがよくある。哲学は役立たないものの代表のように言われることもある。

 専門家を除けば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスから、現代の哲学者までの膨大な著作を読む必要はない。哲学書など一冊も読んだことがない、読んだことはあるが関心はないという者は多い。そして、それで困ることはない。おそらくノーベル賞受賞者でも哲学書など読んだことがない、あるいは読んだことはあるが内容はよく覚えていないという者が多いだろう。優れた業績を後世に残した芸術家、発明家、政治家、社会運動家、企業家などでも同じことが言える。哲学を知らなくても偉大な仕事ができないわけではない。力学や電磁気学、熱力学、相対論や量子論の初歩などは理工系の学生や研究者は勿論のこと、一般市民も概要は知っておくことが望まれる。それに比べると哲学の必要性は乏しい。大型書店にはたくさんの哲学書が並んでいるが、人々の関心が高いわけではなく、関心を持つ者も、不可欠と考えているわけではない。

 それでも、哲学を学ぶことを推奨したい。哲学は無益に思えるが、いろいろと役立つ。先に述べたとおり、偉大な仕事を成し遂げた者の多くは哲学を学んでいないし、それがハンデになってもいない。しかし、そのような者たちは、哲学を学ばなくとも、哲学的な思考や行動様式が身についていたとも言える。

 以前、哲学には三つの方法があると論じた。現象学、言語分析、テクスト読解理論、この三つだ。現象学は懐疑の方法を教える。目の前に机があることに気付くとき、私たちは、机がそこにあり、それを私が見つけたという風に考える。言い換えると、私という主体が、机という世界に実在する客体を発見したという風に考える。そして、机と私は独立した実在だと考える。しかし、現象学はそれを疑う。よく考えると、確実に言えることは、「机と呼ぶものを意識している」ということだけであることに気が付く。机が私とは独立した実在者であるという確固たる証拠はその時点ではない。また、私なるものがなにかもよくわかっていない。だが、私たちの大多数は、そのことを忘れている。デカルトやフッサールはそのことを指摘する。そして、机や私という存在をとりあえずエポケー(判断停止)して、意識という場から出発する。そして、そこに確実なものを発見しようと企てる。これは一見考えすぎで意味がないと思われるかもしれない。だが、そうでもない。見えている者が実在するとは限らない。錯覚は日常茶飯事だし、恐怖に駆られて幽霊が見えたという者は多い。夢に出てくる者の多くは実在しないし、少なくとも、夢の中に実際にいる訳ではない。デカルトやフッサールの結論には多くの難点や疑問がある。だから、デカルトやフッサールの言うことに賛同する必要はない。しかし、常識を疑うこと、目の前のあると思えるものを疑うことが重要なことはよくある。偉大な業績を残した者たちは、無意識のうちに、それを理解し実践している。ただそれが哲学という経験に基づくものではないというだけだ。それに対して、筆者を含め多くの者は常識や感覚を過信し、懐疑することを忘れている。それが国家紛争や民族紛争や宗教戦争に結びつくこともある。だから、よく生きるには健全な懐疑と批判精神が欠かせない。ところが、それを自然に身に付けることができる者は少ない。しかし、哲学を学ぶことで、それを学ぶことができる。だから哲学は意義がある。

 言語分析は、私たちの言葉の使い方に反省を促す。「椅子」という言葉は、家具の椅子を意味すると人々は思い込む。しかし、「総理の椅子」などという表現が示す通り、言葉の意味は簡単には決まらない。それがどのように使われているかを見ないと、その意味はわからない。私たちの争いの多くが言葉の行き違いから生まれること、言葉の理解が融和につながることから、言語分析という哲学的手法を学ぶことには大きな意義がある。哲学は言語を道具として、言語を分析対象とする。だから、その問題設定の仕方、解決方法などは極めて多様であり、そこから多くを学ぶことができる。論理学的な手法で、言語の体系を分析、整理することができるし、ウィトゲンシュタイン流に言葉の使用に着目して、言葉の様々な現れとその社会的影響を考察することもできる。前者は計算論や論理学、コンピュータサイエンスや人工知能研究などに繋がり、後者は社会学的な研究、コミュニケーション論、メディア論などに繋がる。また、政治的な言説を批判的に議論するためにも役立つ。ハイデガーやデリダの手法は、言葉の持つ力やその背後にあるものを明るみに出す。それは芸術の創造や解釈に新しい視点をもたらす。オースティンの言語行為論は法律やコミュニケーション論で大きな役割を果たしている。このように言語分析は様々な領域で使用され私たちの視野を広げる。哲学を学ばなくても、自力でこれらの方法を導き出す能力を持つ者はいる。しかし、そのような能力を持つ者は少なく、それらの者たちには哲学的な言語分析は極めて有益な手掛かりを与える。

 テクスト読解理論は、どのような者でも、(明確にそれを意識していることはほとんどないが)一定のイデオロギーや思考パターンに拘束されていることを明らかにする。そのことを明確に示したのが、西洋近代ではフランシス・ベーコンだった(四つのイドラ説)。誰もが、イデオロギーに従いテクスト(文書などだけではなく、非言語的な芸術、社会的な事象、人々の思考様式・行動様式などを含む広い概念としてのテクスト)を読解する枠組みを持っている。その枠組みを批判的に分析し、時には新しい枠組みの構築を目指すのが哲学的なテクスト読解理論であり、それは私たちのイデオロギー的な、あるいは個人的な体験や共同体での支配的な思考や行動様式による偏ったテクスト解釈をただす力を有している。ただし、これは、現象学的な手法や言語分析よりはかなり難しい。テクスト解釈の枠組みを見直し、解体し、新生するには、たくさんの哲学的テクストを読み、それを批判的に受容し、それを具体的なテクストに適用してみることが必要になる。だが、それは誰にでもできることではない。だから、この方法は上級編として捉える必要がある。それゆえ最初は現象学と言語分析だけでよい。

 このように、哲学の方法は、私たちがよく生き、良い仕事を成し遂げ、良い社会を作るために役立つ。それを具体的にどのような領域に使うかは、人により、状況により異なってくる。道徳の問題、生の問題、コミュニケーション論やメディア論、学問の基礎付け、政治、経済、文化、あらゆる領域で哲学的方法を活用することができる。哲学には学ぶべきことが多くあることを知ってもらいたい。


(H29/4/30記)


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