☆ 哲学の方法 ☆

井出 薫

 哲学が無意味だと思う者が多い理由の一つに、方法論の欠如が挙げられる。数学、物理学、生物学、天文学、これら科学では研究者が共有する典型的な方法と論理があり、研究成果の評価法も確立している。それに対して、哲学では、各人でばらばらの方法と論理が展開され、意見の集約や合意が得られず、絶え間ない論争だけが飽きるまで続けられる。20世紀を代表する哲学者として、ハイデガーとウィトゲンシュタインの名を挙げる者が多い。しかし、その評価の妥当性を証するものは、二人を研究する者が多く、膨大な量の論文や書籍が未だ絶えることなく再生産されているという事実以外にはない。だから、二人は単なる有名人に過ぎず、その哲学自体は正しいものではなく、有益なものでもないと低い評価しか与えない者もいるし、そういう者の意見が間違っていることを証明する術はない。寧ろ、その意見は的を射ているとすら言える。

 しかし、哲学が共通の方法論と論理を欠くというのは実は正しくない。少なくとも20世紀以降の哲学はおよそ三つの方法と論理を土台として展開されてきたと言ってよい。現象学、(論理分析や記号論を含む広義の)言語分析、テクスト読解理論、この三つだ。

 現代的な現象学はフッサールに端を発する。しかしフッサール以前も、それこそプラトン以来、現象学的方法は哲学の中心的な手法だった。実験や観測、観察、統計データの収集と分析など系統的な研究手法を有しない哲学にとって、ありのままの事実を如何にして把握するかが最大の関心事となる。ありのままの事実を捉えるためには、常識的な物の観方や個別科学の暗黙の前提(世界は実在し、物理学で解明できるような世界として存在している、など)を排除して、私たちの前に立ち現われる事象そのものへと接近する必要がある。この方法が現代では「現象学」と呼ばれる。現象学は、プラトンから、近代のデカルト、そして現代の哲学者までが意識的又は無意識的に採用してきた方法と言える。そして、そのことが19世紀末からはっきりと意識されるようになる。

 言語は19世紀後半から哲学研究の中心課題となっている。それは言語を研究対象とすると同時に、言語分析を哲学の中心的な研究方法として確立する。しかし言語分析は、論理学の基礎を築いたアリストテレス以来、こちらも意識するしないに関わりなく西洋哲学の中心に座してきた。デカルトの「我思う、ゆえに我在り」は世界に対する現象学的な接近と捉えることができるが、同時に、「我」という言葉の分析として捉えることもできる。学は常に言葉で語られる。とは言え、高度に専門化し発達した分野、数学や物理学や化学などでは、それぞれの分野固有の人工的な言語体系が存在し、日常を形作る自然言語の在り方を意識したり、研究過程において配慮したりする必要はない。しかし、哲学では私たちが普段使用している普通の言葉で語るしかない。論理記号を使用することはできるが、数学と異なり、特殊な記号体系を前面に押し出し哲学を論じることはできず、常に普通の言葉での語りを前面に出す必要がある。それゆえ、あらゆる哲学は以前から、それと意識せずとも言語分析という手法を援用してきたと言って間違いない。そして、現象学と同様に、言語分析も、その重要性が19世紀末からはっきりと意識されるようになる。

 哲学は、テクストを読むことを通じて、世界=研究対象に接近する。テクストとは先駆者たちの著作だけを意味するものではなく、個別科学、文学、文学以外の芸術、人の心と活動、現実社会の様々な出来事や事物、制度など極めて多岐に亘る。ここで肝要なことは、それらが読者の目の前に、在りのままに在るのではなく、読者の解釈、意味付与を要請しているという事実を認識することだ。そのため、テクストを読む場合は、読者は何らかのテクスト読解理論を前提している。それはたいてい余り意識されない。だが、この無意識化されているテクスト読解理論なしには何も読むことができない。そして、このテクスト読解理論を明るみに出すことで、私たちは、自らの思考と行動を支配するものを知る。そして、その自覚の下で、テクストを再度読み直すことで、私たちは哲学研究を前進させることができる。テクスト読解の理論としては、デリダの「脱構築」が著名であるが、テクスト読解理論は脱構築だけには限らない。それは多数存在し、それぞれが哲学者たちの言動を規定する。但し、テクスト読解理論を明るみに出すという作業自身がテクスト読解を必要とするものであるから、テクスト読解理論とテクスト読解は複雑で曖昧な連関を持つことになる。そのため、デリダの脱構築がその典型であるように、テクスト読解理論を明確に語ることはできない。それはあくまでも背景として在ると考える方がよい。

 哲学の方法がこの3つの限られるということはない。ただ、この3つはあらゆる哲学者がそれと意識していないとしても、その研究の背後で中心的な方法論として作動している。それは哲学という学の特質から必然的に導き出される帰結だと考えてよい。哲学は言葉で書かれ、読まれる。そして言葉で議論される。しかし言葉には常に不確定性、不確実性が付き纏う。さらに言葉が発せられる状況はすぐに消滅し文脈から切り離された言葉だけが残る。だから哲学はいつでも言葉を対象として研究し、そこで言語分析という作業を行うことを余儀なくされる。そして失われた文脈を補うためにテクスト読解理論を構成して文脈を補うと同時に文脈を新たに作り出す。そして言葉に接近し言語分析とテクスト読解理論を作動させるには、現象学的な作業が欠かせない。人はコンピュータではなく、論理や言語分析によるアルゴリズムだけで先に進むことはできない。どうしても、そこに現象学的な接近による対象との遭遇が必要となる。

 3つの方法は、独立したものではなく、どれが表舞台に立つかという違いがあるだけで、常に同時に作用する。言語分析か現象学かという議論はあまり意味がない。言語分析も現象学もどちらも必要だからだ。ただ、どちらに力点を置いて語るかという違いがあるに過ぎない。「丸い四角は存在しない」は、フッサールにとっては現象学的手法、本質直観により認識されるものとされ、論理実証主義者たちにとっては論理分析を含む広義の言語分析により、「丸い四角」が矛盾又は無意味であることが示されることにより認識されるものとされる。しかし、フッサールも丸い四角が言語分析的に無意味であることを知っている。だから、本質直観によりそれが矛盾であること、存在しないことを知ることができる。逆に、論理実証主義者も丸い四角が現象学的に矛盾していることを直観するからこそ、言語分析に基づき無意味だと判断できる。現象学者は現象学的手法に力点を置き、論理実証主義者や分析哲学者は言語分析に力点を置くが、実際は、いずれの側も両方を使用している。

 同じことがテクスト読解理論にも当て嵌まることを確認することは難しくない。こうして哲学研究の主要な3つの方法が相互に連関していることが明らかになる。だからこそ、この3つが哲学の共通の方法と論理だと言うことができる。尤も、この哲学の3つの方法と論理は、他の個別科学の基礎的な方法や論理のような明快なものではなく、それ自体が曖昧で、方法とか論理とか呼べる代物ではないという批判があるかもしれない。実際、言語分析と言っても多様な手法が存在し、その手法の中には互いに矛盾するものも存在する。その点では現象学とテクスト読解理論も変わらない。だから、相変わらず哲学者の間で意見の合致を見ることは少ない。

 しかしながら、この3つの方法と論理という観点を援用することで、哲学が、一般読者にとって、これまでよりもずっと理解しやすく、身近なものとなることが期待できる。そして、そのことは哲学が決して無意味な学ではないことの証となる。


(H25/11/30記)


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