☆ 自由意志 ☆

井出 薫

 自由意志の問題ほど哲学者を悩ませ、そして人々に不安をもたらす問題は他にないだろう。近代以降、物理学が驚異的な進歩を成し遂げ、全てが物理的な必然に基づき生起すると信じられるようになり、自由意志は危機に陥っている。

 尤も、自由意志の存在が大きな問題とされるようになったのも近代以降で、それ以前は洋の東西を問わず、人は神や仏、天命など超越者の定めに従っていると信じられ、自由意志の存在が問題とされることは余りなかった。それが西洋近代に至り、デカルトの心身二元論以来、人間が(認識論的には)超越者に優先するようになり、そこに意志の自由、自由意志がクローズアップされるようになる。つまり現代的な意味での自由意志の誕生は近代にある。ところが、近代の合理主義は、同時に、人間が物質の一部であり、物理法則に従う存在であるという認識を広めることになる。その背景には物理学の驚異的とも言える成功があり、自由意志の存在への懐疑や、唯物論的思想が普及することになる。この結果、近代とともに確立したかに見えた自由意志(それは主体としての人間存在を含意する)は幻想に過ぎないという考えが浮かび上がってくる。

 自由意志否定は哲学においてのみ問題となるものではない。自由意志否定論がもたらす破壊的な帰結を示すのに、しばしば持ち出される犯罪者を弁護する弁護士を例に挙げてみよう。弁護士は被告を弁護して、こう主張する。「すべては物理法則に従う。それゆえ被告が犯罪行為を遂行したのは物理的必然であり、それゆえ被告に罪はない。」この議論は倫理学や哲学の題材としてよく取りあげられるが、誰もが納得する解決策は示されたことがない。

 弁護士の主張への反論は様々ある。物理的必然を認めながらも、それでも被告が遂行した行為は犯罪行為なのだから罰せられて当然とする主張がある。しかしこれは法律の大原則に反する。人に罰を与えることが許容されるには、最低3つの条件が必要とされる。意図的な行為であること、違法性を認識していたこと(あるいは、容易に認識することができたこと)、不可抗力ではないこと、この3つだ。さらに条件として責任能力を追加する場合があるが本稿の議論とは直接関係がないので取り上げない。決定的な論点は、「不可抗力ではない」ことが刑罰を正当化する必要条件だということにある。物理法則により必然的に被告が犯罪的行為を遂行した(せざるを得なかった)のであれば、法律の原則により被告を罰することはできない。ここで「不可抗力」と「物理法則に従う」こととは等価ではないと反論したくなるかもしれない。しかし、不可抗力とは、「物理法則に従う」ことだけを意味するのではなく、精神的な脅威(「殺される」、「家族に危害が加えられる」などの恐怖心)によるものも含むより広い意味だとしても、「物理法則に従う」ことが不可抗力に含まれることは間違いない。突然歩道が陥没し、歩行者が落下、歩行者と衝突した地下工事の作業員が負傷したとしても、歩行者が罰せられることはない。それは物理的な必然であり不可抗力と言わざるを得ないからだ。この例からも分かる通り、物理法則に従って生起した事象は不可抗力と認定するしかない。ただし、加害者が、事故が起きることを予見していた、又は予見できた場合はその限りではない。しかし、生まれた時から物理法則により犯罪的行為遂行を定められていたとしたら、それを(生まれる前に)予見することは不可能だ。

 次にこんな反論もある。「被告は物理的必然性により犯罪的行為を遂行した。同じように我々も物理的必然性に基づき「不可抗力でなかった」という理由を付けて被告を罰する。」という弁護士の論理を逆手にとった反論が考えられる。しかし、これもおかしい。不可抗力であることを認めながら罰すると称しておいて、罰するという自ら行為の正当性として自分もまた物理的必然に従うからだという不可抗力論を持ち出している。被告の不可抗力を認めず、同じ物理的必然性を根拠に自らの行為を不可抗力として正当化することは公平性を欠く。だが、なによりも、このような議論は刑罰の正当性を論証するよりも、寧ろ、その不当性を強く示唆するものであり、容認できるものではない。実際、誰もこの論理の妥当性を認めないだろう。

 このように、不可抗力は罰すべきではないという私たちの常識に従う限り、弁護士の論理を論駁するには、「被告は物理的必然により犯罪的行為を遂行した」という主張そのものの誤りを示す必要がある。その一つの方策が、ポパーやプリコジンにより示されている。彼らは物理法則の普遍性を承認する。しかし物理法則の決定論的な性質は否定する。物理法則には非決定性が含まれており、そこに自由意志の存在する余地がある。彼らの考えが正しいとすれば、弁護士の論理は成立しない。被告は正に非決定性の領域で、自由意志により罪を犯した。だから罰せられる。しかし、ポパーやプリコジンは正しいのだろうか。量子論により物理法則に原理的な不確実性が導入された。初期値(時刻t=0の値)を定めても、後の時刻(t=a、a>0)の物理的な値は一つに決まらず、幾つかの状態が候補となる。どの状態が実現するかは確率論的にしか予測できない。たとえばAという状態が見出される確率が50%、Bという状態が見出される確率が50%という具合にただ実現確率だけが物理法則により決まる。実際にAになるか、Bになるか物理法則は答えを与えることができない。ここにこそ自由意志の可能性が見出される。

 だが、この議論は成立しない。AかBかを人が決めることができるのであれば、そこに自由意志を見い出すことができるだろう。だが、Aになるか、Bになるか、人は決めることができない。ただAを見い出す確率が50%、Bが50%、どちらに賭けるべきか、人は全く分からない。これが人間の置かれた状況であり、そこには自由意志など存在しない。自分でAかBか選択できない以上、そこには如何なる自由もない。どちらか分からないという事実は、寧ろ、人は自然に翻弄されるしかないということを意味する。しかも古典物理学の世界のように決定論的であれば、結果を予測しそれに対処することができるから、ヘーゲルあるいはエンゲルス流の「意識された必然性としての自由」があると言うこともできるが、量子論の世界ではそれすら許されない。

 このように、物理法則の普遍妥当性を要請する限り、自由意志の存在、根源的な意味での自由が存在する余地はないと思われる。だとすると、自由意志を救済する方法はただ一つになる。物理法則の普遍性を否定し、人間の行動や思考は物理法則には従わない、あるいは、人間の行動や思考は、他の物質について成立する物理法則とは異なる法則に従うという二元論を導入するしかない。さもなければ、自由意志を否定するしかない。

 しかし、このような人間の思考や行動を、他の物質に対して成り立つ物理法則には従わないとする根拠はない。人間の脳もまた物理法則に従っていることはほぼ間違いない。だとすると、自由は脳という物質とは異質な存在としての自己意識のようなものの中に存在することになるが、そのようなものが存在する証拠はなく、寧ろ、そのようなものは存在しないだろうと推測されている。しかし、だとすると、自由意志なるものは存在しないという結論を避けることができなくなる。だが、それは、弁護士の論理が妥当であることを証することとなってしまう。

 以前、出来事の二つの記述法について論じたことがある(注)。人の行動や思考を記述するとき、自然科学的な記述と社会的な記述=常識的な記述が並存する。そして、自由意志の問題は、自然科学的な記述の問題ではなく、社会的な記述での問題であるとすることによって、物理学的必然性と調和させることができるであろうことを示唆しておいた。だが、本稿での議論が示す通り、「不可抗力」という概念が物理的必然性を本質的に包含していると考えざるを得ないがゆえに、記述の二元論で自由意志の問題を解決することはできそうもない。では、しかし、私たちはどうすれば問題を解決ないしは解消することができるのだろうか。もしそれが不可能であれば、刑罰は全て不当であり、犯罪的な行為を遂行した者は全て刑罰ではなく治療が必要だということになる。いや、そんなことはないと私たちの常識は訴えるが、その根拠は見当たらない。

 私たちは全員心神喪失状態に在ると考えるべきなのかもしれない。ただ罰するという形態のある種の治療が有効と判断される者が有罪判決を受けることになる。だが、このような議論で人々が満足するはずがない。しかし、これ以上の議論は不可能のように思える。

 なお、補足として一言述べておくと、ここでの議論は死刑廃止論を支持すると思われる。なぜなら、これまでの議論が正しいとすると、治療としての刑罰以外の刑罰は如何なる妥当性ももたないことになる。全ての者の行為は不可抗力である故に、全て無罪だからだ。それゆえ刑罰は治療行為の範囲内でのみ正当化される。死刑は如何なる意味でも治療足りえない。それゆえ、死刑は否定される。だが、当然のことながら、この議論には様々な反論が提起されるだろう。私自身もこの考えに同意している訳ではない。しかし、だとすると、どう考えればよいのだろうか。


(注)「知の体験」に掲載した論考「二つの記述」を参照して頂きたい。
(H26/5/7記)


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