☆ 二つの記述 ☆

井出 薫

 物理法則の必然性と自由意志の問題を巡って、こういう議論がある。

 「全ては必然的な物理法則に従い生起する。彼(または彼女)はこの必然的な法則に従い殺人を行った。物理法則は必然で普遍的だから、彼(または彼女)は殺人を犯すしかなかった。つまり不可抗力だった。だから彼(または彼女)に罰を与えることは正当ではない。」この議論が妥当だとすると、殺人のみならず全ての犯罪は犯罪ではないことになる。刑事罰の対象となる犯罪とは、「意図的」、「違法性の認識」、「不可抗力ではなかった」、この3つを最低条件とする。だから不可抗力ならば犯罪にはならない。何人たりとも、物理法則に逆らうことはできないのだから、如何なる行為も物理法則で予め決まっていたことになる。量子論により、古典物理学的な決定論は否定されたが、量子論でも統計的な決定論(必然性)が成立しており、犯罪と呼ばれる行為を遂行した者は、物理法則により犯罪行為を遂行するしかなかったことになる。だとすれば、これは明らかに不可抗力となり犯罪には該当しない。

 この議論はさらに「自由意志」を否定することになる。自由意志を想定して初めて刑罰は正当化される。犯罪構成要件の一つ「意図的」は、自由意志を想定して初めて意味を持つ。自由意志を否定すれば、「意図的」は意味を持たない。それゆえ、この議論は自由意志を認めるかどうかという根本的問題に繋がる。

 筆者を含めてほとんどの者は刑罰という制度の正当性を支持する。そして、その土台である自由意志も肯定する。では、どうやって最初の議論に対して反論すればよいだろうか。私はこれまで次のような議論を展開してきた。
『一つに出来事を記述する二つの方法がある。社会的な記述と自然的な記述、この二つ。たとえ殺人事件は次のように二通りの遣り方で記述ができる。
(1)AがBを刺殺した。
(2)Aの脳細胞に加えられた信号Xが、Yという脳内過程を惹起し、その結果として、手の筋肉に刺激Zが伝わり、包丁を持ったその手がBの胸に向って突きだされた。大量出血したBは1時間後生命活動を停止した。
 2の記述は1の記述を詳細に説明したものではない。1は社会的価値判断(Aは殺人を行った)を含んでおり単なる物理・生理学的な事実の記述ではない。一方、2は物理学的・生理学的な出来事を物理学的因果連鎖として記述したものであり、そこには価値判断は含まれない。それゆえ、1は社会的な記述であり、2は自然的な記述と言える。
 裁判の判決とは、1の価値判断を含む社会的な記述に基づき、より高次の価値判断を遂行することであり、その価値判断は2のような自然的記述に左右されるものではない。それゆえ自然的な記述が必然性を表現するものだとしても、犯罪者に刑罰を科すことを否定する論拠にはならない。なぜなら刑罰とは社会的な記述に基づき遂行されるものだからだ。
 ただし、なぜ人間は社会的記述と自然的記述の二つの記述を用いるのかという問題には答えはない。ただ、事実そうなのだとしか答えられない。2つの記述は相互に還元することができないものであり、二つの記述が並存する理由を説明することはできない。二つの記述が並存する理由を説明するには、社会的でも自然的でもないより高次の記述(並びにそのための言語体系)が必要となるが、そのようなものは存在しない。説明の連鎖には終わりがあり、終着点では、「それは事実だ」としか表現しようがない。ここでの議論はその終着点の一例であり、その事実(二つの記述の並存と社会的な記述に基づく刑事判決という価値判断遂行)はただ記述することができるだけで、説明することはできない。』

 これが、私の最初の議論に対する回答だった。今でも基本的にはこれでも良いと思っている。ただ、最近は、これだけでは不十分だと考えるようになった。

 二つの記述があると解釈することに問題はないと今でも信じている。また二つの記述が相互に翻訳不可能であり、第3のより高次の記述の不在も間違いない(それゆえ二つの記述の並存を説明することはできない)と確信している。だが、それでも、これだけでは議論は不完全と認めない訳にはいかない。それは、二つの基準の並存が普遍的な社会的・歴史的な事実ではなく、近代社会特有の論理であることに気付いたからだ。二つの記述が存在せず、ただ一つの記述しか存在しない社会が存在していた。自然的な記述が社会的な記述と切り離されて語られるためには、自然科学の発展を待つ必要がある。だから合理的な自然科学(又は、それに相当する何か)が存在しなかった時代や地域には二つの記述は存在しなかった。二つの記述の存在は優れて文明的、それも主として近代以降の西洋文明社会特有(現代ではそれが汎世界化している)の事実とみなされる。そのことに気が付くと、歴史的な視点から、二つの記述の並存について様々に語ることが可能となることが分かる。

 それでも二つの記述の並存そのものを説明することはできない。なぜなら歴史的な記述もまた社会的な記述か自然的な記述かいずれかになるからだ。私たちは歴史そのものの中に生きている訳ではなく、今に生きている。それゆえ、歴史的な記述も又、二つの記述のいずれかになるしかない。ただ、それを歴史的な視点から相対化し、そこに至る過程を語ることは可能となる。そしてそれは理由の説明にならないと言っても、より広い視点から(相対化して)見ることにはなる。

 また、そのことを通じて、この二つの記述の相互連関を思索することも可能となる。私のこれまでの議論では二つの記述は全く異なる場にあることが暗に想定されていた。しかし同じ歴史という場で生まれてきたとすれば、両者には連関があると想定することができる。それはまたしても明快に説明できるものではない。ここでも依然として二つのいずれかの記述を使うしかないというジレンマが立ち塞がる。しかし両者の連関を感じ取ることの意義は小さくない。

 二つの記述の起源と相互の連関は、ウィトゲンシュタインの「論考」を引用して、「語りえないこと(但し、示されること)」に属すると論じることもできよう。ただ、ウィトゲンシュタインは語りえぬことには沈黙するよう警告を発したが、私はこの起源と連関について語るべきだと考えている。但し、まだ、語る方法を見つけることはできていない。

(補足1)
 本論に対して、「オースティンが語る記述主義的誤謬に陥っている。「二つの記述」ではなく、「二つのタイプの言語行為」、あるいは「二つのタイプの言語ゲーム」と言うべきだ」という批判があるかもしれない。しかし、本稿の問題は、社会と自然であり、このような批判は意味がない。「記述」を「言語行為」や「言語ゲーム」と言い換えることはできるが、言い換えたところで議論の中身が変わる訳ではない。

(補足2)
 存在論が議論されていないという異論があろう。本稿は認識論的な視点に終始しており存在論を問うていないという批判だ。確かに、存在論的な次元での議論はなされていない。しかし、存在論も記述が定まらない限り議論できない。それゆえ、本稿は認識論的な議論に見えるかもしれないが、存在論と認識論に先行する場を議論しているものと考えてもらいたい。但し、存在論の問題が残っているのは事実であり、それについては別の機会に譲ることとする。

(H24/3/26記)


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