☆ 道徳規則と自然法則(その2) ☆

井出 薫

道徳規則と自然法則(その1)

 規則は違反可能で、また意識的に変えることもできる。法則は反することはできず、ただ利用することができるだけ。この差異は決定的だ。だがどちらも同じ人間に当て嵌まる。もし両者に決して乗り越えることができない壁があるならば、人間には全く異質な交わり合うことがない二つの領域があることになる。

 それは、身体と精神の二元論を支持する。だが、たとえ二元論が正しいとしても、両者の間に全く繋がりがないとは考えられない。さもなければ精神は身体を認識できないし、身体は精神を感じることもない。だから。二元論を仮定しても、規則と法則には関連があることになる。

 両者の関係を考えるためにまず「言葉」を取り上げる。言葉には規則という側面と、法則という側面の両方がある。子供は大人や友達と交流することで自然に言葉を覚えていく。特に意識をしなくても、間違いなく文法に合致した言葉を話し、正しく聞き取ることができるようになる。間違えることはある。しかしその場合でも間違える原因があり、意識的に間違えるのではない。このことは言葉の使用と理解が自然法則的なものであることを示している。

 その一方で、人はわざと間違った言葉使いをすることができる。「私は犬が好きだ。」ではなく、「私は好きを犬ど」と書いたり、話したりすることができる。それも意図的にだ。言葉の文法を変えることは容易ではないが、変えることが不可能ではない。コンピュータプログラムに使われる人工言語や、論理記号と推論規則などはその背景に自然言語の模倣という原理があるとは言え、言語の改変には違いない。それを定着させることもできる。事実、共通性はあるとは言え、言葉は社会の変化に連れて変わってきた。この点では、言葉の使用と理解は法則よりも規則という面が強い。大人になってから、外国語を習得するときに、そのことを痛感する。意識して学習しないと外国語の文法や単語は身に付かない。ある程度習熟しても、定期的に使わないとすぐに忘れてしまい、間違った表現を使うことになる。聞き取ることも、意識を集中していないと難しい。だが、習熟するにつれて、規則として意識することなく自然に言葉が出てくるようになる。語学力が高い者は外国語でも自然現象のように言葉が溢れ出る。

 このように言葉には規則という側面と法則という側面がある。両者は完全に独立したものではなく相互に連関したものと言わなくてはならない。さもないと言葉の習熟に伴う態度の変化が理解できない。そして、その連関の様態は決して一つではなく、様々な形態がみられる。

 次に習慣を考えてみよう。人は生まれた時から、赤信号と青信号の意味を知っている訳ではない。周囲から教えてもらうことで初めて知る。それは規則であり自然現象ではない。だが、やがて大人になると、信号規則に従うことは当たり前の振る舞い、自然現象に近いものになる。私たちは特段意識することなく、赤信号で静止し、青信号で進む。交通規則に限らず、人は生活の多くの局面で殊更意識することなく規則に従っている。それは、市民としての義務の遂行や権利の行使から、就業規則、家族や隣人、友人、同僚などとの挨拶、日常の規則的な行動(出勤や登校に通る道や乗車する電車の選択など)、日課(早朝の体操、日記、お祈り等)、などあらゆる局面で見られる。それは、単なる自然現象、逆らうことができない自然法則に支配される行動ではない。規則に反することはでき、事実しばしば反した行動を取り、また時には規則そのものを変更したり廃棄したりする。だが、多くの場合、それはほとんど意識されることはない。寝不足や心配事があり心ここに非ずという状況でも、人は普段と同じ行動を取る。会社への道を間違うことはないし、あいさつを忘れることもない。習熟した業務は上の空でもたいていは正しく遂行する。それらは規則という領域から、自然法則の領域へと移行している。

 こうして、習慣においても、規則と法則は相互に連関している。このことは、本論の主題である道徳規則(規範)と自然法則が全く異質なものではないことを示唆する。しかしここで忘れてはいけないことがある。それは、規則が法則に転化したり、法則が規則に転化したりすることはない、ということだ。規則が規則であるのは、それが共同体において多数の人々が守っているときに限られる。「誰も守らない規則」は規則ではない。規則を多くの者が守るということはそこに法則性があることを意味する。また規則に従う行動を継続的に遂行できるのは、身体に法則性があるからだ。規則は自然法則に支えられていると言ってもよい。一方、法則を科学的に解明して人々が理解できるようにするためには、法則を規則として書き記す必要がある。アインシュタインの重力方程式を解くとき、研究者を支配しているのは、解法の規則であり自然法則ではない。このように規則と法則は相互変換したり、他方を排除したりすることはなく、常に共に在る。問題は、どちらの側面が目立つか、どちらの側面に着目して語るかになる。このことは今回取り上げた言葉の使用や理解、習慣に関する考察においても、容易にみてとることができよう。(注)
(注)「言葉の使用と理解」、「習慣」において、両者が並存していることに関しては、次回以降、詳細に議論する。

 そうすると、違反可能な道徳規則と必然的で違反不可能な自然法則の間には何ら矛盾はないことになる。前回取り上げた道徳規則による推論と事実に関する推論の差異も問題ではなくなる。自由意志と物理法則の必然性は矛盾すると言われることがあるが、それは道徳規則と自然法則を両立しない対立概念だと錯覚することから生じる誤解に過ぎない。

 だが、それで問題が解決するわけではない。寧ろ困難は先鋭化する。なぜ、世界には規則で語られる顔と、法則で語られる顔があるのか。そこが分からない。それは自然のなせる技なのか。それとも人間が介在することで現れてくる者、私たちの観念が生み出す姿なのか。それはどういう風に二つの者として現れるのか。これが次なる課題になる。次回は、両者を理性において統一されているが本質的に異質な領域に属すると考えるカント、弁証法的に一者へと統合(止揚)されるとするヘーゲル、倫理を語りえぬものとするウィトゲンシュタインを参考に議論を展開する。

(続く)


(H25/2/2記)


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