☆ 道徳規則と自然法則(その1) ☆

井出 薫

 「困っている人がいたら、助けなくてはいけない」、「人は他人を傷つけてはいけない」、これら道徳規則は、行為に関する推論に使うことができる。「困っている人がいる」ならば道徳規則に基づき、「(あなたはその人を)助けなくてはいけない」が結論される。

 しかしこの推論は事実に関する推論とは異なる。「水酸化ナトリウムと塩酸を混合すると塩ができる」、「液体の水を(大気圧中で)0度以下に冷却すると固体の氷になる」など自然法則が教える規則は、前件が成立した場合、必然的に後件が実現する。大気圧中で水を0度以下に冷却すると必ず氷ができる。一方、「困っている人がいる」という事実は「助ける」という行為を必然的に導く訳ではない。困っている人が居ても無視したり、知らないふりをしたりする者も多い。あるときは助けても、別の時には助けないこともある。「しなくてはならない」、「してはならない」は、必ずしも、「する」、「しない」を導き出さない。

 道徳規則は当為(するべきこと)を導き出すが、事実(する)を導き出すことはできない。ここから、自然法則に代表される客観的で必然的な論理と、道徳規則(あるいは法)に代表される主観的で未決定的な論理との間に決定的な差異が存在することが分かる。この違いを、法則と規則の違いと定義することができる。自然は法則で表現され、社会と人の行為は規則で表現される。両者の差異は決して埋めることはできない。「助けるべきである」(当為)と「助ける」(事実)の間には無限の距離がある。だが、ここに幾つかの疑問が生じる。

 「するべきこと」、「してはいけないこと」を私たちは容易に認識する。人を殺してはいけないこと、盗んではいけないこと、困っている者・苦しんでいる者がいたら助けること、こうした行為が正しいことを知りながら、なぜ人はそれをしないことがあるのか。この問題はアリストテレス以来の難問で、多くの哲学者が解明を試みてきたが満足のいく回答はない。そもそも違反することがあるからこそ、道徳的な規則(規範)となると言ってもよい。つまり規範は違反されることがあることを想定している。違反されることがないのであればそれは法則と同じになる。法則と同じであればそれは自然的な事実であり道徳的な判断ではない。また違反することがないのだから良心の呵責に悩むこともない。だが、この分析は問題を解決するものではない。道徳規則の性質を説明しているだけで、なぜ人が正しいことを知りながら正しいことをしないことがあるのかを説明していない。この議論は単に言葉の定義に関する循環論法に過ぎない。ウィトゲンシュタインはこの点に着目して、倫理や生の問題は語りえない(つまり哲学や論理学で問題を解決することはできない)と論じた。ウィトゲンシュタインは、問題はそれが無意味であることを悟ることで解消されるだけだと言う。どんなに議論しても循環論法から抜け出すことはできない、つまりその議論は無意味、語ることができないとウィトゲンシュタインは主張する。

 しかし、「これは難問でも何でもなく簡単な問題だ」と言う者がいるだろう。「するべきこと」、「してはならないこと」と「したいこと」、「したくないこと」との間には差異がある。人はしたいことをして、したくないことはしない。だから、するべきことがしたくないことであれば、しないし、してはいけないことがしたいことであれば、する。こうして、人はときに道徳規則に違反する。一見したところこれで十分に見えるかもしれないが、そうではない。なぜ、「したいこと」と「するべきこと」の間にずれが生じているのか、「したくもないこと」を「するべきこと」へと転化するものは何なのか。人によって欲することが違う。するべきこととは多数の者が欲することを意味する。だから少数の者にとっては「するべきこと」は「したいこと」ではない。だから差異が発生するのだと。これが一つの有力な答えだ。これは道徳規則が地域によって時代によって異なること、人により道徳観に違いがあることも説明する。だが、これは尤もらしいが正しい答えとは言えない。一人一人が置かれている環境や各人の身体的、精神的差異を考えれば、「したいこと」、「したくないこと」が各人で異なることは認められる。しかし、各人の欲望が異なるということは「事実」の領域(法則性の領域)に属することで、「当為」の領域に属することではない。だから、多数者が欲することと、(全ての者が守るべき)規範との間には解消できない差異がある。多数者が欲していることが、するべきことにはならない。それはすでに本稿で最初に論じた。つまり、ここで論じてきたことは、「道徳規則」と「自然法則」の差異を再確認するだけで、両者の関係を解明するには至っていない。ここで問題となっていることは、両者が決定的に異なりながらも、「なぜ、私たちはなすべきことを知ることができるのか」、そして「知るにも拘らず、何故そうしないのか」ということで、事実関係の確認並びに連関を求めているのではない。要は、当為に関する規則と事実に関する法則がどのように関わりあっているのかが問題となっているのであり、事実関係の因果的連鎖を発見することが求められているのではない。従って、「するべきこと」と「したいこと」の差異を以て「なぜ、するべき(又は、してはいけない)ことが分かっているのに、しない(する)ことがあるのか」という問題の解決はできない。また、この説明では、「「したいこと」よりも「するべきこと」を優先させなくてはならない」という規範を大多数の者が承認している理由を説明することができない。

 「するべきことをしないことがあるのは何故か」という問いは、規範の持つ拘束力とその限界をどのように理解するべきなのかという問題に帰着する。そして、もし規則と法則を隔て、時に開く扉があるとしたら、それが何であり、どの性質を持つかを調べる必要が生じる。だが、いずれにしろ、これらの問題はすこぶる難解で誰も解明できていない。当然のことながら、この問題をここで解明することなど筆者の力量では到底及びもつかない。そこで、この問題は差し当たり将来の課題として残し、まずは道徳規則と自然法則の中間に位置する(ように見える)様々な活動を考えてみることにしよう。

 そこで、次回は両者の中間的存在とみなされる言葉と習慣に焦点を当てて議論を試みる。

(続く)


(H25/1/5記)


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