☆ 孤高の思想家ウィトゲンシュタイン ☆

『ウィトゲンシュタインはこう考えた』 鬼界彰夫著 講談社現代新書 2003,7

 ウィトゲンシュタインを論じた書物は山ほどあるが、本書は、生前刊行された唯一の哲学書である「論考」の元原稿となった「草稿」を精読して、ウィトゲンシュタインの思想の特質を鮮やかに描き出した著作として一読に値する。

 ウィトゲンシュタインに限らず、一般的に、哲学書は多義的で様々な読み方を許容する。だが、ウィトゲンシュタインの場合は特にその傾向が強い。
 ウィトゲンシュタインを、近代西洋思想の根底にある「主体」概念を解体した哲学者として読むこともできるし、現実に生きる私という意味での「主体」を徹底的に追求した哲学者として読むこともできる。
 最近は、ポストモダニズム的な文脈で「主体」を解体した思想家ウィトゲンシュタインという観点から論じられる傾向が強いが、本書では、自らの生きる意味を探究し続けた孤高の思想家ウィトゲンシュタインという観点から、そのテクストが読解される。

 著者は、「草稿」を細かく分析して、ウィトゲンシュタインの哲学的思索を駆り立てているものが、「私」の存在意義の探究であることを明らかにする。著者はウィトゲンシュタインの哲学的思索の過程を次のように総括する。

『ウィトゲンシュタインは「草稿」から「論考」に至る過程において、論理を主題としながら、現実に生きる私=ウィトゲンシュタイン本人の存在意義を徹底的に追求したが、それを明らかにすることに失敗する。そこで、彼は、現実に生き責任を負う私=倫理的な主体を世界から追放する。その後、「哲学探究」として纏められる哲学的思索の中で、言語ゲームという梃子を使って「私」=「主体」を徹底的に世界から排除する。だが、最晩年の思索において、ウィトゲンシュタインは、言語ゲームの基底に存在する現実に生きる私を再発見する。死の直前、ウィトゲンシュタインは若き日からの哲学的探究の目標であった私の意義を遂に発見した。』

 おおよそ、これが、著者のウィトゲンシュタイン読解だ。ウィトゲンシュタインは、生の意義を探究する過程で、論理、数学、言葉の意味、理解、規則、知識の問題など多くの哲学的問題に重要な貢献をしたが、その背景にあったのは、狂おしいばかりに「私」の存在意義を追い求めたウィトゲンシュタインという特異な人間であった。そして、ウィトゲンシュタインは、人生の最後に、現実の世界の中に生きる倫理的主体としての「私」の意義を確信する。著者はこう結論付ける。
 「私の人生は素晴らしかった」というのがウィトゲンシュタイン最後の言葉だが、著者の解釈に従えばこの言葉の意味は明白になる。

 著者のウィトゲンシュタイン像は、実存主義的であり、世界を構成する「私」を探究の中心に据えているという意味でフッサールと同じ地平に属する。ウィトゲンシュタインを実存主義的に捉える、あるいは、フッサールとの類似性に力点をおいて解釈するという試みは過去にも存在した。その点では、本書は特に目新しいものではない。だが、ウィトゲンシュタインの草稿や膨大な遺稿を精読して、それを一本の太いロープに纏めてみせた著者の力量には眼を見張らせるものがある。

 ただし、ウィトゲンシュタインの解説書を初めて紐解く読者には、本書のような読み方だけがウィトゲンシュタイン読解の唯一の方法ではないことを注意しておく。「主体」を解体した思想家=ポストモダニズムの先駆的思想家という読みかたも十分に可能だ。現代アメリカ哲学を代表する一人リチャード・ローティは、ウィトゲンシュタインは、調子が悪いとき以外は、哲学を余りまともに取らないことを読者に勧めた思想家として評価する。ローティの立場は本書とは正反対だ。

 ちなみに、国内で、ウィトゲンシュタインを「主体」を解体した思想家として評価してきたのが黒崎宏氏である。本書を読んで、ウィトゲンシュタインに興味を持った人は、同氏の著作を読んでみるとよい。そこには別のウィトゲンシュタインがいる。

 なお、本書は、ウィトゲンシュタインはおろか、哲学書も哲学の解説書も一度も読んだことがないという読者には内容が高度すぎるだろう。そういう読者は、まず、ウィトゲンシュタインのよき理解者ノーマン・マルコムの「ウィトゲンシュタイン:天才哲学者の思い出」を読むことをお勧めする。

井出 薫


(H15/10/4記)

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