野矢茂樹著『クリプキ』(シリーズ・哲学のエッセンス、2004年7月、日本放送出版協会)
本書は、アメリカ哲学・論理学界の重鎮の一人、ソール・A・クリプキの著作「ウィトゲンシュタインのパラドックス」(黒崎宏訳、1983年、産業図書、原著1982年)を野矢氏独自の視点を交えながら平易に解説した良書である。 本書では、「みどり(グリーン)」並びに「+(プラス)」という極めてありふれた言葉と記号を題材にして、クリプキの立論を下敷きに、言葉の意味とは何か、そもそも言葉は何かを意味しうるのかという問題が追求される。おそらく、現代の英米哲学や人工知能などに関心のある読者は、大いに興味をそそられるだろう。また、この方面に特段関心がない読者にも、「言葉や記号の意味」が様々な学問分野や現実社会で極めて大きな役割を果たしていることを考えれば、一読に値すると推奨することができる。 ボリュームは100ページを少し超える程度で、叙述は極めて平易で読みやすく、ここで下手な解説をしても興ざめするだけなので止めておく。ただ気が付いた点を2、3記しておく。 〜傾向性の議論の欠如〜 本書では、原書でクリプキが重要な反論として取り上げた「傾向性(ディスポジション)」の問題が議論されていない。 傾向性とは、「プラス」に対して、通常のプラスをするような傾向を私たちが有しているということである。私たちはプラスの意味を考えて、プラスをプラスとして使用するのではなく、プラスをするという傾向性を有するから、プラスをする。つまり、「プラスの意味は、プラスをするという傾向性により決まる」という立場が成り立ちうる。これがクリプキの懐疑的な問題に対する、傾向性の立場からの反論である。 クリプキは、傾向性による懐疑的な問題の解決を否定しているのであるが、その議論は完全であるとは言えない。だから、クリプキ問題を論じるうえで、傾向性の問題解明は不可欠であると思われる。また、この傾向性の問題から、コンピュータと人間の差異を論じる手掛かりが得られる。それゆえ、著者がこの問題の議論を省いたことには疑問が残る。 (注)コンピュータは、その物理的な機構において、プラスを通常のプラスとして使用する電子回路を有しており、だから、常にプラスをプラスとして処理する。このことが、プラスが通常のプラスを意味することを基礎付けるのではないだろうか。実は、この考えは間違いである。コンピュータは自ら意味を問題とすることはなく、意味の問題とは専ら人間の問題だからである。とは言え、このことを論じるためにも、傾向性(ディスポジション)の問題を看過することはできないと考える。 〜「事実」とは何か〜 著者は、「事実」という概念を天下り的に導入している。だが、「事実」とは何かということの批判的な解明が欠かせない。まず、事実とは理論的な考察に先立つものではないことに注意が必要である。ハンソンやクーンが示したとおり、観察は理論負荷性を免れえない。なまの観察、なまの事実なるものは存在しない。たとえば、エネルギーや運動量という概念は物理理論から離れては精確な意味を持ちえない。事実とは常に構成されたものなのだ。だから、それを天下り式に自明なものとして提示することはできない。 通常の学問では、「事実とはそもそも何か」などと論じる必要はないが、根源的な考察を目指す哲学においては無視できない問題なのである。この問題を省くことで、「クリプキ」の後半部分は議論が雑で不完全なものとなってしまっている。 〜世界の見方〜 野矢とクリプキは、ウィトゲンシュタインが拒否した、言葉の意味の対応説を暗黙のうちに仮定していると感じられる。だから、意味が不確実だ、いや、そもそも意味することが不可能なのではないか、という議論が登場することになる。「事実」という極めて曖昧な概念が詳しく分析されることなく導入されるのも同じような発想に基づいているのではないか。 つまり、野矢もクリプキも、適切なピースを適切な場所に当てはめることでジグソーパズルが完成するように、適切な言葉を選択することで完成させることができるような、言葉に先立つ分節化された世界が存在すると信じているようにみえる。 だが、このような考え方こそが、ウィトゲンシュタインが生涯をかけて解消しようとした思想である。 クリプキと野矢は、クリプキ問題を通じて、ウィトゲンシュタインの正しさを擁護しようとしていると解釈することもできなくはない。だが、そのような解釈には無理があると感じるし、ウィトゲンシュタインの擁護論を展開していると考えても、それに成功しているとは言い難い。 井出 薫 |