☆ 西洋哲学書ベストテン ☆

井出 薫

 西洋哲学書のベストテンを選んでみよう。所詮こういうリストは興味本位であり、自分の趣味を語るに過ぎない。だが、西洋哲学に興味をもっているのだが、何から読んだらよいだろう、と迷っている人には、いささかなりとも、参考になるだろう。それと、こういうリストを作ることは、私自身が、自分の哲学的傾向を再確認するのに役に立つ。
*ここで、「西洋」という言葉で何を意味するか、どの範囲を「西洋哲学」と呼ぶのかという問題がある。だが、この問題は論じると長くなるので、省略する。逃げていると言われるかもしれない(半分くらいは図星である)が、実際議論すると長くなるから仕方ない。別の機会があることを祈る。

第1位   プラトン「国家」
第2位   ウィトゲンシュタイン 「哲学的探究」
第3位   ホッブス「リヴァイアサン」
第4位   ルソー「人間不平等起源論」
第5位   アダム・スミス「諸国民の富」
第6位   マルクス「資本論」
第7位   デカルト「方法序説」
第8位   ニーチェ「ツァラトストラ」
第9位   スピノザ「エチカ」
第10位   カント「純粋理性批判」


選考の基準
 まず、ベストテン選考の基準を簡単に説明しておこう。哲学書ベストテンのリストを目にする機会は少なくないが、基準が不明確な場合が多い。ただし、実際の選考がこの基準に合っているかどうかは読者の判断に任せる。
  • 論旨が明快で分かりやすく書かれている。
    カントとヘーゲルに代表されるドイツ観念論の悪しき影響で、哲学書といえば難解−正確に言えば意味不明−なものという観念が定着してしまった。あまつさえ、難解であればあるほど、ありがたがる人がいるから始末におえない。哲学書は、誰でも丹念に読んでいけば理解できるものでなくてはならない。
  • 誰もが関心を持つ問題を扱っている。
     遺伝子がどのような化学構造を持っているか、150億年後の宇宙はどのようになっているか、これらは非常に興味深い問題である。しかし、「私はこんなことに関心はない。」と無視できる。だが、明確に意識していなくても、「私は何をなすべきか。」、「生にはどのような意味があるのか」という問題に人は無関心でいられない。哲学書はまさにこういう問題を扱わなくてはならない。
  • 読者の思考法・ものの見方の転換を促す。
     哲学の問題に正解はない。「生の意味は何か」がその典型である。では、よい哲学書は何を語っているのか。私(=読者)と世界に対する、新しい考え方、新しい行為の仕方が示されているのが、よい哲学書である。正解はないのだから、哲学書が語ることに従う必要はない。だが、よい哲学書は、「このような考えかた、みかたがあるのか!」と読者に驚きをもたらし、新たな思考を促す。
 この3つの基準に適ったものがよい哲学書である。では、それを紹介しよう。
↑Page Top
第1位 プラトン「国家」
*紀元前375年頃の著作と言われる
 これを1位にするのは、少し気が引ける。余りにも月並みだからだ。「国家」を1位にもってきたことで、もう後は読まなくても予想がつくと言われてしまうかもしれない。だが、これが、西洋哲学の原点であり、3つの基準を完璧に満たすことは否定のしようがない。この著作は、「哲学とは何か」、「哲学者とは何か、哲学する者は何をするべきか」という問いに対する答えの原型を示している。ハイデガーを筆頭とする多くの20世紀の哲学者が、プラトン以来の西洋哲学を根底から批判して解体すると宣言してきた。だが、誰一人としてプラトンを超えていない。
 哲学とは、世俗的な視野の狭い見解や常識を超えて、真の知識を目指すものである。哲学者とは、この真の知を愛する者、ソフィア(叡知)をフィレイン(愛)する者のことである。これが、2000年を超えて西洋思想を支配してきた考えである。 (私は認めないが)20世紀最大の哲学者と呼ばれるハイデガーは、プラトンを克服して、根本的に新しい思想を示そうとする。だが、ハイデガーの生き様こそ、プラトンが示した愛智者そのもの、残念ながらその歪んだ姿である。ハイデガーは、その生き様において、プラトンを超えていない、後退している。哲学する者は、誰もプラトンを超えることはできないのかもしれない。
 「国家」はプラトンの代表作である。哲学と哲学者の定義、線分の比喩や洞窟の比喩を使って示される哲学的方法、イデア、善と正義、国家のあるべき姿、芸術などが、ソクラテスと仲間たちの対話として平易に語られていく。女も男と同じ仕事をするべきである、女も戦争に参加するべきであるという主張が紀元前の著作で主張されていることを知ると驚くに違いない。プラトンは、ある意味では、現代のフェミニズムを先取りしている。−ただし、プラトンを男女平等論者とみなすことはできない。−
 プラトンの著作はどれも大変面白い。哲学書を読んだことがないという人は、まず、プラトンの「ソクラテスの弁明」、「饗宴」、そして、この「国家」のいずれかを読むとよい。−最初は「国家」ではなく、「弁明」か「饗宴」が読みやすいかもしれない。−
 どれを読んでも少しも面白くない、あるいは、どれ一つとして最後まで読みとおせなかった、という人は、哲学はきれいさっぱり忘れた方が身のためである。
↑Page Top
第2位 ウィトゲンシュタイン 「哲学的探究」
*1953年、死後刊行
 これは、はっきり言って、私の趣味である。ウィトゲンシュタインフリークとして2位に選ばせてもらった。この本は、ウィトゲンシュタインが、出版を試みたが果たせず、彼の死後、弟子達が彼の遺稿を纏めて出版したものである。統一された主題がないために、(私のような)ウィトゲンシュタインの読者でない人には読みやすいとは言えない。だが、この本では、難しい哲学用語はひとつも使われていない。日常で使われる普通の言葉で哲学が展開されている。
 ウィトゲンシュタインが、この本の序文として用意した原稿の中にこんな言葉がある。
 『この本は、読者が考えることを省略することができるようにすることを目的とするものではない。読者が自分で考えることを勇気付けることが目的である。』
 これこそが、哲学の真のそして唯一の目的である。
 この本には、言葉を使って語る・書く・考える動物である人間が、陥りがちな偏見や誤解が、ものの見事に描き出されている。同時にその治療法も示されている。ただし、ウィトゲンシュタインの治療法は対処療法である。その先は読者が自分で考えていかなくてはならない。だからこそ、読む価値があるのだ。
↑Page Top
第3位 ホッブス「リヴァイアサン」
*1651年
 ホッブスのこの著作を、哲学書に入れることに反対されるかもしれない。ホッブス自身が、この書の最後のところで、アリストテレスを引き合いに出して哲学を厳しく非難している。それでも、この著作は偉大な哲学書である。私の三つの基準を完全に満たすからだ。
 人間が哲学するのはどこか、人間は何を背景にして考えるのか、国家である。国家なしには、人は考えることはできない、国家という枠組みの中で始めて考えることができる。国家をいくら激しく攻撃しても、国家という枠組みの中で、それに沿って人は考えるしかない。無政府主義者でも、実は国家という枠組みに捉えられている。国家がなければ、国家のない社会を考えることすらできないのである。プラトンの著作の題名が「国家」であるように、国家は哲学と同じくらい古い。そして、同時に新しい。ヘーゲルが、ハイデガーが、国家を考えざるを得なかったことがそれを示している。
ホッブスが、この著作の中で、このことを直接示しているわけではない。だが、ホッブスは、「国家」なるものが、地上最大最強の存在「リヴァイアサン」であることを雄弁に物語る。哲学者、いな、すべての考える者は、国家に抵抗しようと、国家の中で考え、生きるしかない。ソクラテスが、不当な裁判で死刑を宣告されたとき、友人の勧めにも拘わらず脱獄を拒否して、「私は国家の定めに従わなければならない。」と述べたことは、人間の運命を雄弁に物語る。ホッブスも国家=リヴァイアサンであることを示すことで、同じことを新しい形で再確認する。
 「万人の万人との戦い」、これが自然・原始状態であるとホッブスは述べる。もちろん、これは根拠のない主張である。しかし、原始状態から、各人が安全のために自然権を手放し、社会を作りそれが国家となったという、ホッブスの想定は、人間の本質を理解する上で、決定的な重要性をもつ。人間は他人との共生のために、思考をする必要が生じたことがここで示されている。孤立した個人には哲学する場はないのである。
↑Page Top
第4位 ルソー「人間不平等起源論」
*1755年
 初めて、この本を読んだとき、マルクス主義者の体制批判はすべてルソーの真似に過ぎないと痛感した。マルクス主義が後退した現代、西洋社会における最大の体制批判者はエコロジストとフェミニストであろう。だが、彼あるいは彼女たちの体制批判も、ルソーを少しも超えるものではない。
 私たちは、体制を批判するとき、多かれ少なかれ、ルソーの影響を受ける。おそらく、ルソーにより、すでに、社会体制批判のエッセンスは汲みつくされているのだ。体制を批判する者、根源的に批判しようとする者は、良くも悪くもルソー主義者となる宿命にある。
 体制批判と革新はすべてよいことである、と能天気に信じることができる時代は過ぎた。私たちは、この本にもう一度立ち返ることが必要であろう。
 なお、ルソーの著作でこの本がベストではないと言われる人が少なくないと思う。しかし、私はこの本がルソーの本質を示し、後世への影響のすべてを示していると考える。
↑Page Top
第5位 アダム・スミス「諸国民の富」
*1776年
 アメリカの独立宣言と同じ年に出版されたこの本を哲学書のリストに入れることは、ホッブスの著作以上に反対を受けるだろう。だが、誰もが無関心でいられないことを語り、人々の思考方法を一新したこの著作をリストから外すわけにはいかない。しかも、この本も分かりやすい。もう少し短く書いて欲しかったが。
 ソ連・東欧の共産主義国家が崩壊し、中国が開放政策を進め、豊かになった中国国民が明るい顔で資本主義は悪くないと記者に語る現代、私たちは、当分の間、資本主義的市場経済の世界で生きていかなくてはならない。
 アダム・スミスが資本主義を作ったわけではない。だが、資本主義の精神を明確に定式化したのはアダム・スミスである。「節度を守れば、利潤を求めて競争することはよいことである。それにより社会は豊かになる。」アダム・スミスは高らかに宣言する。お陰で、卑しい者のおこないとされていた金儲けは、正常な人間の正常なおこないとなったのである。小泉改革の理念も、このアダム・スミスの理念の焼き直しでしかない。アダム・スミスは紛れもなく、「いま」、「ここ」にある。
 この本は、経済学書としてはもはや過去のものだろう。経済学部の学生が専門家になるためにこの本を読む必要はない。−経済学史の専門家になるのでない限り−だが、良くも悪くも資本主義に生きることを余儀なくされている現代人は、たとえ、明確に意識することはなくとも、アダム・スミスの精神のもとにある。哲学する者はそれを忘れてはならない。
↑Page Top
第6位 マルクス「資本論」
*1867年
 「ソ連の崩壊以来マルクスの評判はすこぶる悪い。」というマルクス崇拝者の泣き言があちらこちらから聞こえてくる。
 過大評価されてきた反動だから仕方がない。マルクスの価値は少しも減っていないなどと強がりを言っても虚しい。マルクスの資本論は経済学書としては何の役にも立たない。余裕しゃくしゃくの資本主義経済学者から「マルクスは偉大な経済学者であった。」とお褒めの言葉を頂戴するようでは、なす術もない。
 マルクスの資本論は正真正銘の哲学書である。哲学書として読むべきである。そうすれば、マルクスの資本論は蘇る(と期待したい)。アダム・スミスは、富を求める個人をその思想の核に据えた。それは、現代の経済学でも変わることはない。ケインズは、純粋な個人から、企業と家計へとその眼差しを移し変えた。だが、ケインズの思想が他の経済学者よりはるかに深いものであるとしても、それは独立した個人のアナロジーでしかない。生物学的、生態学的アプローチをとる経済学者も、根底に位置するのは、富を求める個人かその代理物である。
 経済学は、このような自律した個人あるいは組織を前提として成立つ。マルクスは「資本論」でこの前提に挑戦する。マルクスの試みは、資本論の副題、資本論に先立つ著作の題名が示すとおり経済学批判である。マルクスは、資本主義という体制が、経済学者の想定するようなものではないことを示そうとする。自律した個人や組織がまず存在して、それが社会を作るのではなく、資本主義的体制という社会的諸関係の総体がまずあり、そこから、資本家、労働者、貨幣、商品、商品価値と使用価値などが生じてくると考える。
 マルクス主義者は、「マルクスの考え方こそ真実であり、資本主義的経済学者の考えは、自律した個人という資本主義的イデオロギーの産物である。」と主張する。このような主張には無理があると思う。マルクスと経済学者は、全く異なる地面に立っているのだ。マルクスの資本主義も経済学者の資本主義も、それぞれ一つの資本主義である。マルクスの資本主義は哲学者の資本主義である。経済学者の資本主義ばかりが幅を利かせる現代、哲学者の資本主義に着目する必要がある。その意味で、資本論は価値がある。
 なお、マルクスがヘーゲル的な叙述法を採用したために、資本論特に最初の部分は甚だ読みにくい。マルクス崇拝者はこれこそが科学的叙述法だなどと言うが嘘である。もっと、分かりやすく語ることができたはずである。残念!
↑Page Top
第7位 デカルト「方法序説」
*1637年
 余りにも有名な「我思うゆえに我在り」。この「思う我」が近代西洋哲学を支配してきたと言われる「コギト」である。この本は、すべてを疑うことから始まる。そして、疑うことができない「コギト」が定立される。このコギトは人間である。哲学の根拠は神ではなく人間にある。これが、デカルト哲学が切り開いた新しい地平、後世に決定的な影響を与えた地平である。
 デカルトの思想は、多くの批判を浴びてきた。同時代人では、パスカルが厳しいデカルト批判を展開している。だが、パスカルのような優れた批判者を呼び寄せるところにデカルトとその著作の偉大さがある。偉大な思想は私たちの思考を一新する。そこには当然敵対者があらわれる。
 デカルトの論理は明快である。書き方も平易で分かりやすい。「方法序説」が多くの読者を獲得して、後世に大きな影響を与えたのも当然である。プラトンの「ソクラテスの弁明」と並んで最も読みやすい哲学思想書と言ってよいだろう。
 なお、デカルトは、学問をやるときにはすべてを疑えと述べているが、その一方で、実生活では、慣習や賢者の教えに従うべきであると勧めている。このあたりにも、デカルトという人の懐の深さが感じ取られる。
↑Page Top
第8位 ニーチェ「ツァラトストラ」
*1883−85年 4部構成
 ニーチェは哲学者であるというより詩人であるとウィトゲンシュタインは語っている。ニーチェの本は、どれも、大変刺激的で読むものを魅了する。
 ニーチェの代表作は何かというと意見は分かれる。私は個人的には「悲劇の誕生」が一番好きである。しかし、ニーチェの特色が最もよく示され、「神は死んだ」という衝撃的な言葉が語られる本書こそ、ニーチェ最大の著作と言うべきであろう。
 ニーチェの目標は、弱者のルサンチマン(復讐心と訳されるが、日本人が「復讐心」という言葉から感じ取るものとは少し違う)の産物であるキリスト教とプラトン以来の西洋形而上学=西洋哲学を根底から転覆することである。その転覆の中から、新しい価値が、新しい神が誕生する。そのことが、ツァラトストラの口を借りて力強く語られる。
 他の哲学書と違い、そこには普通の意味での論理はない。メタファーがあるだけである。合理的な論証はない。だが、論理は、三段論法や数学的証明のようなものだけではない。数理論理的な証明はなくとも、ニーチェの目指すところを、読者は容易に掴み取ることができる。
 本書の結論とも言うべき永遠回帰の思想はニヒリズムの頂点である。これと、ニーチェの超人との整合性がやはり気になる。永遠回帰が、本当なら、すべては虚しいと感じるからだ。数学的論理、数学的合理主義という呪縛に囚われている現代人には理解が困難である。にも拘わらず、ニーチェの著作は我々を魅了する。この矛盾、これが私たちを思索の道へと誘い入れる。
↑Page Top
第9位 スピノザ「エチカ」
*1675年
 私が最も好きな哲学書である。論証の仕方がスコラ哲学的であるところが、順位を落とした理由である。スピノザの「エチカ」は、ニュートンの「プリンキピア」(1687年)とほぼ同時代の作品である。このような時代背景を考えると、その論証の進め方の古臭さは否めない。残念ながら評価を落とすしかなかった。
 それでも、この著作ほど、ある種の人にとっては(たとえば、私のことだ)、心に響くものはない。
 本書で語られる有名な言葉に「永遠の相のもと」というものがある。これはどういう意味か簡単に説明しよう。
 車を飛ばしていて、信号のない見通しの悪い交差点に差し掛かった。そのとき、運悪く横の道から車が飛び出してきて衝突する。どちらの車の運転手にも、これは不幸な事故、偶然の出来事である。だが、このとき、交差点の側に建つ高いビルの屋上から、下を見おろしていた人がいたとするとどうであろう。その人は、交差点で二台の車が衝突することを予想できた。つまり、この屋上から見ていた人にとっては、衝突事故は必然的な出来事なのである。
 この世界には偶然など存在しない。すべては必然である。しかし、人間は有限であり、何が起こるか知ることができない。運転手と同じである。だから、運命に翻弄され、悲しみ、苦しむことになる。屋上で下を見ていた人も、車の衝突事故は必然としてみることができるとしても、突風が吹き屋上から転落したら、不幸な偶発的事故にあったことになる。
 永遠の相のもと、それはすべてを必然としてみることである。だが、そのようなことは人間には不可能である。自分におきることを含めてすべての出来事に対して、傍観者、屋上からの観察者になることはできない。人間には不幸から逃れる術はない。
 永遠の相のもとにみる、それは、自然=実体=神であるところの「神」だけがよくなせる業である。人間はそのような境涯にたつことはない。ただ、神の一部であることを知ることを通じて、間接的に永遠の相の下にみることが可能となる。スピノザの哲学は、祈りの哲学である。いつ死ぬとも知れぬ人間に、やさしく語りかける、祈りの哲学なのである。
↑Page Top
第10位 カント「純粋理性批判」
*1781年
 正直、不本意である。哲学書は難解である(でなくてはならない)という偏見を植付けたのが、カントの哲学書である。
 しかし、カントのこの著作が優れた哲学書、歴史に巨大な影響を与えた哲学書であることを否定するのはやはり難しい。哲学専門家なら、この著をベストスリーにランクインさせるだろう。私も妥協して10位に入れた。というより、カントのこの著作をランク外に落としてまでベストテンに入れるべき著作が尽きた、というのが本音である。
 カントのこの著作は、19世紀以降の哲学に決定的な影響を与えた。人間の認識は、人間の理性構造により決定される。(考えてみれば当たり前だが)カントのこの著作を境に、哲学の主題は、理性構造の分析を軸とした認識論へと転回した。ハイデガーやポストモダニズムのような近代理性中心主義批判を展開する思想も、カントがこの本を書いたからこそ可能となった。20世紀の言語論的転回もカントが準備したと言ってもよい。
さらに、理論と実践の関係についても非常に重要な考察がおこなわれている。
とはいえ、読むのはしんどい。トルストイですら、読んだがちっともわからなかったと嘆いたそうである。哲学を本格的に勉強するつもりがない人には勧めない。
↑Page Top
番外篇と補足
 アリストテレス、ヘーゲル、ハイデガーが入っていないと抗議されるだろう。
 ヘーゲルの哲学が巨大な影響を与えたことは事実である。しかし、カントまではなんとか許せるが、ヘーゲルの著作は無理である。私の選択基準の一番目に合格しない。ヘーゲルの代表作といえば「精神現象学」が挙げられるだろう。だが、正直読めたものではない。この本が最初からすらすら読めたという人は嘘つきであるか、よほど間抜けであるか、別の本を読んでいたと思って間違いはない。哲学史や美術に関する著作には比較的読みやすいものもある。だが、ヘーゲルの代表作ではない。
 ハイデガーも同じ理由である。ハイデガーの「存在と時間」はさほど難しくないと言えるかもしれない。だが、ハイデガー評価には、彼のナチ関与の問題が付き纏う。ナチにコミットしたから駄目だというつもりはない。問題は、代表作「存在と時間」に明確にナチズムを予告する部分があることだ。運命、民族、英雄、先駆的覚悟性などが語られている箇所である。ハイデガーのナチ問題に関しては多くの議論がなされてきたが、評価が定まっていない。現時点では、ハイデガーとその哲学書の評価は保留する。
 アリストテレスは、哲学書でなく、哲学者ベストテンを選ぶのであれば、文句なく、1位か2位に選んだ。ベストテンに一つも選んでいないのは、彼の最高傑作が選べなかったからである。普通「形而上学」を選ぶのが定番である。だが、「形而上学」がアリストテレス最良の著作とは思えない。他の学は特殊存在を扱うが、第一の学=哲学は、存在そのものを扱うというアリストテレスの同書で与えた定式化は大きな影響を与えたかもしれない。ハイデガーの「存在と時間」は、アリストテレスを引用して「存在」そのものを問うと宣言している。そうは言っても、これが最良の著作とは思えない。プラトンのイデア説批判も屁理屈に過ぎないと感じる。−哲学はすべてへ理屈と言えなくもないのであるが。−「ニコマコス倫理学」もよく取り上げられるが、正直今ひとつである。
 とはいえ、アリストテレスの著作を一つも選ばないのは公平ではないかもしれない。だが、これは、哲学者ベストテンではないということでご了解いただきたい。
 なお、ユークリッドの「幾何学原論」、コペルニクスの「天球回転論」、ニュートンの「プリンキピア」、ダーウィンの「種の起源」などは、間違いなく、ここで取り上げたどの著作よりも、人類の歴史に決定的な影響を与えたと言える。
 だが、私は哲学と自然科学や数学とは決定的に異なる学であると考える。古代ギリシャにおいては、自然科学も数学も哲学も同じであったと言われるかもしれない。しかし、古代ギリシャでも、数学や自然科学は哲学と異なる主題と方法を持っていた。プラトンやアリストテレスとアルキメデスやユークリッドは全く別の世界に生きた人である。
だから、私は、自然科学や数学の本を選ばなかった。このリストは歴史を変えた著作ベストテンではない。
↑Page Top

(H15/1記)




Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.