里見 哲
日本人大リーガーの活躍が連日報道されている。大リーガーの誰もが目差している のが、ワールドシリーズ出場だ。米国とカナダのチームで構成されるに過ぎない大 リーグの一位が世界一になる仕組みだ。世界中から一番野球がうまい選手達が大リー グに集まっているからだという。確かに日本からも超一流選手が大リーグに入ってい るし、全体の3割が外国出身者で占めていることからも、大リーグの勝者を世界一と することは妥当だろう。 一方、イングランド発祥のサッカーでは、ワールドカップの優勝者が世界一を称す る。だが、母国イングランドは、サッカーのワールドカップ第一回大会には出場せ ず、ラグビーのワールドカップ開催にも消極的であった。ゲームの勝負の行方より、 母国の自分達のサッカーこそ、世界一であると位置づけていた。両大会への参加も英 国内からイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4チームと なっている。 さらに、フランスのクーベルタン男爵により提唱された古代ギリシャの競技会を復 活と位置づけられるオリンピックへの参加は国民国家単位であり、英国も一カ国の扱 いである。 このように、発祥国の性格、スポーツの普及度、成立した時代により様々な世界一 が存在する。ワールドカップは、覇権国英国の影響力と衰退を、オリンピックは、近 代国民国家体制を、そしてワールドシリーズは、20世紀後半の覇権国米国の多民族 性を反映している。大リーグは、戦後、白人以外の選手に活躍の場を与え、世界一に 相応しい内容を維持したといえるが、野球は、サッカーのように全世界に広まってい ない証拠でもある。 スポーツの世界でも、時代や歴史的背景により、世界一は様々である。現在盛んに 語られているグローバリズム論や、新帝国論、ナショナリズム論が、あまりにも一面 的に論じられていないかを検証するためにも、文化的、歴史的アプローチを軽視して はならないだろう。スポーツイベントは、国際関係の変化を写し出す有効な表象装置 と言えるだろう。 |