里見哲
日本を代表する私学である早稲田大学と関西学院大学の学長が、それぞれの所属する学生の不祥事について、社会に謝罪している。だが、両学長の世間への謝罪は、白々しく感じさせるものがある。彼ら自身と学校のイメージ低下を防ぐという動機から謝罪しているに過ぎないのではないか。学長の真摯な姿勢にあまり水をさしたくはないが、そういう穿った見方もできなくはあるまい。 社員が業務上で起した犯罪でも、社員個人の問題と居直る企業が多いのに対し、大学学長が丁寧にお詫びする姿は新鮮である。学生運動華やかしき時代であれば、学生の言動について、学長が謝るなど考えられもしなかったし、謝ったら謝ったで学生側から批判を浴びたことであろう。かつて学生はエリートだった。何年も社会に出て苦労している学歴のない人々の発言より、学生の言動が社会に影響を与えていたように見えた時代がつい最近まで続いていたのだ。 今や学生は、学校に指導される被保護者に立場を変えた。大学は、高校のように、学生に対し生活指導をせざるを得ないのだろうし、社会も生活指導を期待しているのだろう。さも無ければ、大学総長の謝罪が、何の違和感もなく社会に受け入れられた現象を理解できない。だが、大学は、本当に学生の生活指導などできるのだろうか。今後、多くの社会人を迎え、学生の管理はますます難しくなるのではないか。道徳の時間もなく、担任もいない大学において生活指導は困難だろう。 最近の報道を見る限り、強姦サークルのリーダーは、早稲田ブランドを巧みに使っていたようだ。確かに私の周りの早稲田オービーには、人格も能力も優れた人が多い。多くの人たちの努力により構築された早稲田ブランドを、少人数の不心得者に傷つけられたという悔しさは良く分かる。今回の相次ぐ学長の謝罪は、学生の被保護者化と、少子化時代を迎えた大学のブランド維持・向上施策の本格化という二つのトレンドが顕在化したものと見るべきだろう。 |