里見哲
広島県の民間から登用された校長の自殺に引続き、教育委員会の次長の自殺が報じられている。不登校、学力低下など数々の問題が発生していると言われる教育現場に、様々な分野で活躍した人材をいれ、活用することは、無駄な試みとは言えまい。 だが、現状の組織に、いきなり民間人校長を配置することにより、事態がすぐにも解決すると考えるのは間違いだし、花々しく、マスコミ受けする施策だけで、本来、文部科学省や教育委員会が行わなければならない地道な取組みが放棄されるようなことがあれば、この施策も弊害のほうが多いということになりかねない。 本当に、民間の力が必要とされるなら、校長だけではなく、現職の教員の何%かを、社会人採用するなどの方法も考えられるのではないかと思われる。終身雇用の形態が主流でなくなりつつある現在、教員採用もまた時代の要請に合わせる必要があるだろう。 教育委員会は、自殺前の校長に叱咤激励し、そのことが逆に校長の疲労困憊とうつ状況を助長し、死に追いやった、と一部で非難されているようである。それが事実だとしたら、確かに、教育委員会は、現場の状況把握も、うつ状態の人への対応も不十分だったということになるだろう。メンタルヘルス上のノウハウがここにも浸透していなかったということなのだろうか。 一部の報道では、教育委員会の次長の自殺した日は、市民団体からの回答期限日だとされている。この報道をそのまま鵜呑みにしていいのかを別として、もし、それが事実だとすれば、市民団体も非難先である教育委員会と同じ行為をしてしまったことになろう。人が次々追い詰められて自殺していくとは、なんと悲惨なことか。ここ数年、年間の自殺者が3万人を超えているが、これは教育界だけの問題ではなく、社会全体の問題となりつつある。人が人を裁き、次々と追い詰めていく一方、肝心な当事者の責任の所在はあきらかにならない状況なのだ。しかも教職員組合では、発砲事件騒ぎを起している。 ゆとりのある教育というキャッチーフレーズは、生徒の勉学の時間のことだけを示しているわけではあるまい。人の痛みを理解し、共通して困難に立ち向かうという内容も含んでいるはずだ。人は生きているうえ、高邁な理想を必要とするが、思いやりやユーモアの感覚も大切である。今回の事件は、現在社会に蔓延する余裕のなさを示したものと言えよう。教育は大切であるが、人間を大切にするという基本姿勢があってこそ、重要であるに過ぎないからだ。必要な法制度の改革や要員の措置も行わず、世間受けを狙って民間校長を登用したのだとしたら、行政、教育委員会、労組ともあまりにも無責任だと言わざるを得ない。 |