☆ 両立する社会正義と増収施策 ☆

里見哲

 福岡県の中学生自殺事件で、またもや実名報道の是非を巡って議論が起こっている。今年8月にも高専生殺人事件で、容疑者であった少年の実名が報道された。容疑者が逃亡しており、2次犯罪の可能性もあるとのことで週刊誌は実名報道に踏み切った。さらに一部のテレビ局は容疑者が自殺した後、匿名にする必要が無くなったとの判断で、実名を報じた。

 地元警察は、最後まで容疑者の名前を発表しなかった。もし容疑者逃亡時に第2の犯罪が起こっていれば強く非難されただろう。警察は第2の犯罪が発生する可能性は少ないと判断したものと思われる。また逆に実名発表していれば人権擁護団体などから非難されたに違いない。警察はいずれにしれも自身の責任で判断をくだしたのであり、結果としても正しい判断であったといえるだろう。

 一方、実名報道した雑誌社やテレビ局の判断はどうだったのだろうか。逃亡中に実名報道した週刊誌には、それなりの理由があるが、容疑者死亡後に実名報道に踏み切ったテレビ局の判断は一体どのような理由に基づいているのか不明である。容疑者死亡のため匿名の理由がなくなったというのは説明になっていない。

 ひねくれた見方をすれば、両者とも今回、もともと販売数、視聴率向上のために実名報道するチャンスを狙っていたのではないのだろうか。競合他社が匿名報道している中での実名報道は、大きな差別化に繋がる。恐らく収益増につながっているだろう。

 実名報道を巡って、「人権保護か知る権利か」とマスコミ関係者や学者の議論が繰返し行われているが、今一つピンと来ないのは、肝心な営利の面の問題が捨象されているからである。資本主義のもとでのマスコミのあり方を語るには、営利面の分析が不可欠なはずである。いくら真摯に議論しても、第3者にとってきれいごとにしか見えないのである。自分自身の痛みなしで社会正義を訴える人達に対し、もう少し疑いの目で見ることが必要であろう。それはマスコミの実名報道問題に限らない。

(H18/10/25記)


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