「青年の主張」への挽歌

里見哲

 NHK教育テレビで全国放送されていた「青年の主張」がテレビ番組から消えたという。最近は、青春メッセージと名前を変え、往年の勢いを取り戻そうと担当者も努力をしていたらしいが、応募者は年々減り続け、ついに放送を断念したようだ。あの独特の口調で、辛い境遇の中、努力してこの世を良くしようという各参加者の訴えは、実際最後に視聴したのが20年以上前なのにもかかわらず、いざ無くなると寂しさを感じる。暴力と野次であけくれる成人式の現状と表裏一体の関係なのかもしれない。

 荒れる成人式や青年の主張の終了をもって、現代の二十歳の若者がだらしないと決め付けるのは容易である。今や大人になるのは、20代後半なのだという意見も傾聴に値する。だが、これらの問題は若者を指弾することによって解決する問題でないことも確かである。大人の仲間入りを祝うと称しながら、選挙対策や上意下達に明け暮れた各地方自治体や、若者に枠をあてがい、独特な口調に誘導した青年の主張の主催者もまた自分達の使命を自覚していないということであろう。

 逆に20歳の青年達が本当に大人の仲間入りをしたのなら、各地方自治体のあてがいぶちの式典ではなく、自分達でイベントを主催するだろう。かつての新成人は、仲間に会うことを目的に、大人たちが主催する式典が終わるまで、おとなしく付き合ってあげるくらいの大人にはなっていたということではないか。子供じみていたのは主催者側だったのだろう。動員のために子供じみたイベントを企画する自治体は、本末転倒である。それならば、いっそのこと新成人に遊園地の割引券でも配ったほうがましだろう。

 今や20歳というのは、学生かフリーターという時代である。祝うのであれば、高校卒業時か大学卒業時のほうが相応しい。このような形骸化した式典に参加するのも、その多くは気の利かない若者である可能性も高いだろう。メディア側も、荒れるのを待ち構えて報道しているのではないかと思われる場合もある。それでいて「今年も何万人が大人の仲間入りをしました」というリードをつけているのだから、これまた矛盾している。一体大人とは何なのだろうか。

 成人式が形骸化する一方、「青年の主張」は、いつしか余裕やユーモアという面を捨象してしまっていた。本当は、人々への思いやり、労わりというのは、余裕やユーモアがなければ長続きしないのではないか。絶叫調、お泪頂戴ものに焦点をしぼった主催者側の意図こそが、青年の主張を終了に追い込んだのではないだろうか。今の時代、大人側が主催するイベントを続けたいのであれば、「青年の不安」とか「青年の笑い」などにコンセプトを変えて実施する以外、復活の意味はないであろう。

(H17/1/13記)


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