想像のコスモポリタン

里見哲

 イラク人質事件では、被害者3人に対する批判が多く寄せられたようである。善意に溢れた行動をした彼らが批判された理由は、彼ら自身がコスモポリタンとして行動したにも関わらず、外国から日本人として扱われ、さらに被害者の関係者が日本政府を非難してしまったという捩れた関係が生じてしまった点にあるのだろう。

   今回の事件では、被害者の自己責任を強調する論調と、「人の命は地球より重い」と自衛隊撤退を主張する論調の二つがあった。前者に対しては、日本人は血を流す貢献をしないという非難を受けて、日本政府が自衛隊派遣を決定したことを考えると、その論理にはやや無理がある。パウエル国務長官の指摘しているように、他国のために一肌脱いでもいいという「日本人」があらわれているという面を否定できないからだ。被害者に対し、匿名でいやがらせをした人々もまた自分の行いを恥じる必要があるだろう。

 後者に対しては、自分たちの唱えるレトリックに酔っているという側面があるように感じられる。「人の命は地球より重い」という手垢に塗れかかっている言葉は、人を十人救うためには、九人の人間まで見捨てたり、殺したりしていいのか、威厳のために自分の命を投げ出す行為について、他人が評価できるかという問題に対し、当然のことながら、なんらの解答も用意していない。ここにはもともと責任という概念がないのである。

 もっとも、彼らが日本人として行動したわけではないだろう。高校を卒業したばかりの青年が、果たして本当に何をやりたかったのかは分からない。フリージャーナリストも自分のキャリアのため命を賭けたという面が強いのかもしれない。しかし、彼らは少なくとも犯人にとって、「日本人」であったわけである。

 民族とは何か。しばしば引用される「想像の共同体」というベネディクト・アンダーソンの造語がある。想像の共同体だからこそ、実体の無い単なる概念に基づく呪縛をやぶり、より人間本位に生きるべきだという文脈でも、想像の共同体であるからこそ、実体をもつよりもしぶとく人間に影響を与えるという文脈でも引用されている。

 民族を強調するより、一人の人間であること、他人の痛みを共有できる人間であることがコスモポリタンたる者の条件であろう。ただし、そのコスモポリタンとは、出生や成育環境により、深く「民族」という想像の概念に束縛されていることも忘れてはならないだろう。その点を踏まえないコスモポリタンもまた想像の産物に過ぎないのではないだろうか。今回の人質事件では、かつて十二歳程度と言われた日本民族の成熟のために大きな教訓を含んでいたのではないかと思われる。恐らくコスモポリタンたりうるには、善意と責任の両方の視点が必要だからである。

(H16/4/23記)


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