☆ 40年間の教訓 ☆

井出薫

 40年前の85年、プラザ合意に基づき先進国は協調介入で為替をドル安に誘導した。1ドル240円前後だった円は1年間で150円近くまで急騰しその後も円高が進んだ。円高は輸出産業に大きな打撃を与え日銀は対策として公定歩合を大幅に引き下げた。その結果、輸出産業は息を吹き返したが、過剰な通貨が株や不動産に流れ込みバブルが発生した。不動産と株の価格は急騰し人々はバブルに酔いしれた。当時、財務部門に所属していた同期の一人が自慢げにこんなことを口にしたのを思い出す。「今日は株で50億円儲けた」。営業収入3千億円台、営業利益3百億円台の企業にとって確かに大きな儲けだった。他の企業や資産運用をしている個人にも同じことが起き、儲けた者は大いに浮かれ散財し消費が活性化しGDPは拡大した。同時に価値があがった円は世界を席巻し、日本企業や国内の投資家たちは海外の不動産を買い漁り、日本は世界でも有数の金持ち国にのしあがった。NTTは株式の時価総額で世界一となり、西武鉄道グループの総帥、堤義明は長者番付で世界一の座を手に入れた。一人当たりのGDPは米国を抜き、スイスに次ぐ世界第二位となり、日本が米国を抜きGDP世界一になる日がくると予想する者もいた。

 だが、所詮実力の伴わないバブルだった。89年末に株価はピークを迎え年明けには暴落した。これがバブル崩壊の序章だった。だがその時点ではいずれ回復すると多くの者が楽観していた。しかし同時期、バブルで土地と家屋が高騰し庶民は東京に家が持てなくなっていた。そこで資産バブル解消を目指して日銀は公定歩合を大幅に引き上げた。だが、これで一挙に経済は暗転した。銀行は多額の不良債権を抱え、資産運用で儲けた者たちは一転して資産を失い途方に暮れた。それでも90年代初めはバブルの余韻が残り、バブルが崩壊したことを認識できなかった。バブルの象徴とも言われたジュリアナ東京が開店したのは91年ですでにバブル崩壊が始まっていた。バブルと91年にバブルが崩壊したことが広く認識されるようになったのは93年頃だった。94年にジュリアナ東京が閉店、翌95年には阪神淡路大震災とオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生し宴の終焉を象徴した。さらにアジア通貨危機の煽りで97年には拓銀、山一証券など大手金融機関が次々と破綻して日本経済は完全に低迷期に入った。その後遺症は今も残り、世界経済における日本の地位は大きく後退、一人当たりのGDPは30位台後半まで落ちた。

 何が悪かったのか。金融政策の失敗が大きく影響したことは確かだ。90年代以降労働力人口が減少に転じたことも原因の一つと言えよう。だが一番の原因はバブルに踊り、あくせく働くよりも資産運用で楽に儲けた方が得だという悪魔の囁きに惑わされ勤勉の精神を失ったことにあるのではないだろうか。それがバブルとバブル崩壊の認識を遅らせ、認識して以降はバブルの反動でひたすらリスク回避をするというデフレマインドが日本中に広がった。チャレンジ精神を失った日本が低迷するのは必然だった。

 資産運用で楽して儲けようなどという考えは邪道で、資産運用は働いて得た資産を将来に備え手堅く増やし生活を守るための補助的手段に過ぎない。一般市民は働き社会に貢献する、経営者や政治家は常に状況を注視しながら一定程度のリスクを覚悟してチャレンジし失敗したら直ちに察知し方針を見直す、この二つをしっかりと実行することが何より大切だ。40年間の日本の歩みを思い起こし、そのことを再認識したい。


(2025/8/18記)


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