☆ 岸田内閣と資本主義 ☆

井出薫

 岸田首相の任期も終わりに近づいた。今の支持率では自民党総裁選での再選はあり得ず、早晩再選断念を表明することになる。そもそも旧岸田派の会計責任者が有罪になっているのだからたとえ支持率が高くとも責任をとって退任するのが筋だ。

 岸田首相は「新しい資本主義、成長と分配の好循環」を実現すると公約した。だが実現できなかった。二つの問題、格差拡大と分配の不公正が解消できていないからだ。この二つの問題が解消しない限り、経済の低迷は続き、たとえ成長率が上がったとしても人々の不満が収まることはない。

 70年代は新卒の年収が2〜3百万円、社長の年収が3千万円などと言われていた。それに合わせて国家官僚の事務方トップである事務次官の年収も3千万円程度に設定された。それがこの半世紀で社長あるいはCEOの年収は10倍あるいはそれ以上になったが、新卒者の初任給はせいぜい数倍にしかなっていない。しかも70年代は所得税の最高税率が70%を超えており住民税を合わせると課税所得の80%以上が税金で徴収されていた。だが今は所得税・住民税合わせて最高税率が55%まで下がっている。収入の差は拡大し、徴収される税の税率の差は縮小した。当然に経済格差は著しく拡大した。さらに非正規雇用の増大が格差拡大に拍車を掛けた。かつて一億総中流社会と言われた日本も今や世界でも有数の格差社会になった。

 保育士、看護師、介護士、宅配やタクシーのドライバー、ごみの収集や処理をする労働者たちなどエッセンシャルワーカーの仕事は社会的重要性が極めて高い。それなのに賃金は低い。しかもこれらの仕事に必要とされるスキルは決して低くない。筆者は亡くなった両親の介護で、優秀で誠実な看護師や介護士さんたちに大変お世話になった。これらの人たちの支援がなければ、親子共倒れになり筆者もすでにこの世に居なかった。介護や看護の仕事は決して容易くなく、高いスキル、忍耐と思いやりがないとできない。筆者などには若い時でも到底できなかっただろう。一方、大企業の空調の効いたオフィスで働く管理者やその部下たちは何をしているか。意義の乏しい社内会議の招集、誰も真剣に読まない会議資料の作成、ろくな結論がでない会議、いい加減な議事録の作成等で一日のほとんどが潰れる。社会的貢献度などないに等しい。それでも年収は悠に一千万円を超えエッセンシャルワーカーを遥かに凌ぐ。こういう不公正な富の分配がなされている。『負債論』などで名高い社会思想家、故デヴィット・グレーバーは「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」(仕事のための仕事など社会的貢献度が著しく低いあるいはないに等しい仕事を意味する)を遣っている者たちがエッセンシャルワーカーなどよりずっと高い報酬を得ていることを告発した。日本でも大企業や官庁のオフィスではブルシット・ジョブが実に多い。しかも、それを遣っている者の多くは有名大学卒でエリートと呼ばれ日本人の平均年収よりもはるかに高い収入を得ている。斯く言う筆者も現役時代はその片隅に潜んでいたので、その指摘が事実であることが分かる。

 格差拡大、不公正な分配、この二つの是正に岸田首相は全く手を付けなかった。バブル期以来の高い賃上げを実現したと自負しているが、賃上げの恩恵を一番受けたのは大企業の管理者や管理者予備軍だ。だが、そういう者たちは元々収入と資産が多く、安部元首相以来の大企業の業績改善と株価の上昇で、株など有価証券の配当や譲渡益、資産運用でたとえ賃金が上がらずとも物価高の影響を相殺できる。岸田内閣の支持率低迷は短期的には政治資金パーティー券問題によるところが大きいが、不人気の根本原因はこれら社会的不公正を解決できなかったことにある。

 もちろん、この問題の解決は難しい。岸田首相だけではなく先進国の首脳の多くがこの問題を解決できていない。その意味では岸田首相を低評価するのは公平ではないかもしれない。フランスの総選挙でマクロン大統領率いる中道政党が退潮し、代わりに右翼政党と左翼政党が躍進したのも、日本と同様に格差拡大、富の分配の不公正が背景にあると推測される。フランスに限らず欧米の多くの国で同じような現象が起きている。その要因として移民問題が指摘されることが多い。だが、移民を積極的に受け入れることで欧米諸国は労働力人口の減少を回避し日本よりマクロ経済的にはずっと上手く遣っている。それにも拘らず社会が混乱し国内対立が激化するのは、移民問題に隠され見えにくくなっているものの、格差拡大と分配の不公正があるからだ。それに対する人々の不満が移民へと向けられている。

 新首相が誰になってもここで論じた二つの課題を解決することは難しい。誰がなっても、たとえ野党政権が出来ても数年以内に期待外れと失望することになる。それは、問題が資本主義そのものの欠陥に起因しているからだ。資本主義は競争により発展する。他にはない財やサービスを生み出すことで成長し大きな利益を得ることができる。そのため資本主義は基本的に競争を促進し、競争を阻害するものを排除する。だが競争促進は格差を拡大する。また格差を拡大することで人々を競争に駆り立て、それで資本主義は成長している。それゆえ資本主義は国家などからの強い介入がない限り、必然的に格差を拡大する。エッセンシャルワーカーの仕事の社会的価値は極めて大きい。だが、それはマルクスの言葉を借りれば「使用価値」が大きいのであって、「商品価値」は大きくない。なぜなら、たとえば介護を必要とする者やその家族の多くは豊かではなく大金を支払うことができない。だから介護士の仕事は使用価値は極めて大きいのに商品価値が低く、結果的に社会的価値に見合った報酬が得られない。一方、大企業は巨大な資本力で莫大な商品価値を生み出し多額の収益を得られるから、無駄な仕事をしている者たちに高い報酬を出す余裕がある。つまり大企業のエリートたちは使用価値がない又は低い仕事をしているのに商品価値はあるかのように振舞うことができ高い報酬が得られる。こうして資本主義ではエッセンシャルワーカーの多くは低い賃金に甘んじるしかない。それを回避するには全員を公務員にする必要があるが、資本主義は規制を嫌い小さな政府、税金の安い政府を望むからエッセンシャルワーカーの公務員化には同意しない。富の不公正な分配もまた資本主義の欠陥に基づく。

 だからと言って直ちに資本主義を覆すことはできないし、できたとしても今より良くなる保証はない。今できる最良のことは、政治家が素直にこの現実を認め、それを国民に丁寧に説明し、国民が自ら何をすればよいのか、何ができるのか真剣に考えることだ。しかし、政治家も一般国民も資本主義以外にはないと信じている者が多い現状ではあまり期待できない。


(2024/7/2記)


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