井出薫
名目賃金は上がったが実質賃金は下がっている。企業の業績は過去最高水準だが、日本企業の国際競争力は下がっており、円安と新型コロナの5類移行に伴う社会経済活動の回復で一時的に利益が出ているに過ぎない。首相は盛んに賃上げの成果を強調し、賃上げ、消費活性化、経済成長、賃上げの好循環が生まれると胸を張っているが見通しが甘すぎる。 日本経済低迷の理由は様々ある。バブル期以降の経済政策、金融政策は失敗の連続だったという意見がある。90年初頭、バブルを抑制するために金融を引き締めすぎ急速な景気後退と不良債権の多発を生んだ。90年代半ば過ぎ景気後退の兆候が顕著だったのに橋本政権は財政再建を優先し金融緩和も積極的な財政出動もせず、さらなる景気後退を起こし、拓銀や山一証券などの大手金融機関の破綻を招き経済は混迷した。不良債権処理に手間取り、小泉政権の規制緩和も十分な効果を上げることはなかった。その後、リーマンショックに襲われ大幅な景気後退が起きる中、政権を奪取した民主党政権は「政治主導」、「コンクリートから人へ」を旗頭に、事業仕分け、八ッ場ダム建設中止(のちに撤回)などを実施したが、効果は乏しく、逆に財政健全化を優先して野田政権は消費税増税を決定、経済は冷え込んだ。安部政権は異次元の金融緩和とインフレターゲットでデフレ脱却を図り力強い経済成長を実現しようと試みた。だが、デフレ脱却にはある程度成功し株価上昇、企業業績の改善などの成果はあったものの、成長戦略を欠き日本経済は低金利低賃金に依存する脆弱な体制に陥った。そして、現在に至っている。 このように、経済低迷の原因の一つとして、バブル崩壊以降の経済政策の失敗を挙げることができる。しかし、それだけで現在の日本経済の低迷を説明することはできない。一連の経済政策はその時々の状況を考えれば必ずしも間違った政策ではなかったし一時的な成果が上がったこともある。だが、いずれも長続きせず頓挫してきた。日本の経済構造に問題があると考えないと、いまの日本経済の状況を理解することはできない。 長きに亘るデフレで、日本社会全体にデフレマインドが広がったことが低迷の大きな原因と言われる。物価は上がらない、賃金は上がらない、だから企業は費用と投資の抑制を図り人件費と委託費を削減し海外へ工場や営業拠点などを移転する。消費者は将来に備えて貯蓄に勤しみ消費やリスクのある投資をしない。これでは経済成長は期待できない。ここから脱却するには、賃上げ、消費活性化、企業業績の改善、賃上げという成長・分配の好循環が実現する必要がある。だが、まさに、好循環を生むために不可欠なデフレマインド解消が簡単には実現できない。しかも今や高齢者人口は人口全体の3割近くに達し、さらに増加する。高齢者はインフレを嫌う。少子高齢化でマクロスライドが働き年金支給額は物価上昇には追い付かない。逆に医療費などの自己負担比率は上がる。高齢者の生活が苦しくなると、高齢者を扶養する家族など現役世代の生活を圧迫する。こういう状況ではデフレマインドの解消は容易ではない。 少子高齢化の急速な進展で労働力人口が減少している。経済成長は様々な要因で決まるが、労働人口は重要な要因で、目覚ましい発展を遂げる途上国は労働人口が増加している。それゆえ労働人口の減少が経済に影響していることは間違いない。しかし、この問題の解決は難しい。首相は異次元の少子化対策をするというが、功を奏しても労働力人口が増加するには20年以上掛かる。さらに、子どもを何人産むかは女性の自由であり、たとえ経済的に豊かでも、子どもはいらない、一人で十分という者もいる。経済的支援だけでどこまで少子化対策になるのかは疑問と言わなくてはならない。そうなると、労働生産性を高めるか、海外から人を招くしかない。しかし、近年、欧米各国で移民の扱いをめぐって社会の分断が広がっているという報道を目にすることが増え、もともと海外からの人の受け入れに消極的だった日本人はさらに消極的になっている。特に保守層は移民に対して総じて不寛容で、違法滞在者はすぐに追い返せ!などという極右的な発言をする者もいる。労働生産性もそう簡単には上がらない。景気が低迷する中、労働生産性を上げると失業率があがるなどということになりかねない。 不要な規制の撤廃、必要な規制緩和の促進が不十分で、それが生産性向上と、成長分野への人の移動を妨げているという意見がある。特に近年、年功序列、終身雇用制という日本の雇用慣行が批判の対象となっている。だが、それを言うならば、年功序列と終身雇用と並んで、新卒一括採用という日本の慣例もまた成長の妨げになっていると言える。日本経済停滞の原因の一つに研究開発力の低下が挙げられるが、その背景には博士が評価されず、就職にも苦労しているという実情がある。少子化による大学経営の逼迫で博士にポストを用意することができない。民間企業に就職しても、学卒、修士卒よりも高く評価され重要な地位が与えられることがない。単に学卒よりも5年年齢が上の者の給与地位と同じ給与地位しか与えられない。その後の昇進、昇給も博士だからと言って優遇されることもない。まさに、こういう事情の背景に新卒一括採用の存在がある。新卒者を一律平等に扱うことになるからだ。また、新卒一括採用の所為で、大学3年にもなると、学業よりも就職活動が優先し学問し研究することが疎かになる。修士課程への進学が多い理工系でも、修士課程2年目は研究よりも就職活動が主要な活動になる。これでは大学の研究開発力は向上しない。しかし、新卒一括採用のお陰で日本では若者の失業率が他国よりも低く、社会の安定に繋がっている。それゆえこの制度を変えることにも問題がある。 繰り返しになるが、研究開発力の衰えが指摘される。他国と比較して論文数が増えず、特にトップレベルの論文は減っている。ランキングもみても大きく下がっている。人口が日本の半分以下の韓国にも抜かれている。研究開発力が落ちることが直ちに日本の経済低迷に繋がるわけではないが、資源や食糧・飼料を海外に依存することが多い日本は、成長分野での存在感を増し、日本が得意とする分野で他国の追随を許さぬ優位性を維持し、それを輸出や国内産業振興に繋げることが欠かせない。だが、研究開発費は伸びず、先に述べた通り雇用慣行が研究開発力の改善を拒んでいる。 ほかにも景気低迷の原因があるだろう。そして、いずれも解決は容易ではない。成長と分配の好循環の実現など、当面は困難だと悟ったうえで、長期的に対策を打っていく必要がある。ただ、避けるべきことは、何かと言えば世界最悪の財政状態などといって、国債発行に消極的になり、増税、社会保険料の引き上げ、社会保障費の削減を図ろうとする緊縮財政論を展開することだ。通貨発行権限を持つ日本は、戦争や革命が起きたり、政治的混乱が極まり法案が一切通らないような非常事態になったりしない限り、国債の償還や利払いが不可能になることはない。債務残高がGDPの二倍になろうと三倍になろうとそのことに変わりはない。国債発行は子孫に負債を残すことだとよく言われるが、通貨発行権限を国が手放さない限り、子孫の世代もその次の世代、その次の世代はさらに次の世代に負債を先送りすることができるのだから、本質的に負債を残すことにはならない。むしろ経済が低迷し国力が衰退すれば、それこそ現在の世代が子孫に重い負の遺産を渡すことになる。ただ注意すべきは通貨信用の下落とそれに伴う高度なインフレだ。それは経済破綻に繋がる。だが、それを確実に回避する方法は増税や社会保険料の引き上げや社会保障の削減ではなく、経済成長率を上げることだ。実質GDP成長率2%、物価上昇率2%、名目GDP成長率4%、賃金の上昇率4%が実現すれば、名目GDPは18年で倍になり、増税や社会保険料の引き上げなしで税収や社会保険料は自然増になり、GDP比での債務残高も外国並みになる。そして、そうなれば、日本と円の信用が失墜することはない。また、このような状況ならば、高齢者向けの低額のサービスを設けることも可能となり高齢者にも利益がある。むしろ増税で景気が低迷する方が経済破綻のリスクは増える。 ここで述べてきたとおり、実質GDP成長率2%、物価上昇率2%、名目GDP成長率4%、賃金4%増を実現することは容易ではない。だが、実現不可能な数字ではない。研究開発費を増やし、博士を優遇し、国内外から招集した優れた研究者が自由に研究し成果に見合う報酬が得られるようにして研究開発力を高め、海外からの労働者受け入れの制度と環境を整備し労働力不足を補い、その一方で、少子化対策を並行して行う、失業率の上昇を避けながら雇用制度を含めて規制改革を行う、これらの施策により、目標の達成は可能となる。ここで、現状ではすぐに「財源はどうするのだ?」という議論が出るのだが、それは封印して、当面は国債発行で対応し、経済成長により長期的に財政健全化するという姿勢が欠かせない。今の日本の現状を打破するには爪に火を点して暮らすようなことは止めて積極的に前に出なくてはならない。そこで初めてデフレマインドも解消される。 了 (補足) 筆者は長期的(半世紀から一世紀後)には斎藤幸平氏が提唱する脱成長コミュニズムへの移行を支持する。しかし、短期・中期的にはその実現は不可能で、無理に実現しようとすると独裁を招き、社会に大混乱を引き起こす。それゆえ、短期・中期的には環境保全と格差是正に十分に配慮したうえで経済成長を促す必要があると考える。 |