☆ ポピュリズム ☆

井出薫

 近頃、ポピュリズムという言葉をよく耳にする。フランス政界では、メランションは左派ポピュリズムで、ルペンは右派ポピュリズムなどと言われる。米国では、トランプは右派ポピュリズムで、サンダースは左派ポピュリズムと評されることがある。日本でも、日本維新の会を右派ポピュリズム、れいわ新選組を左派ポピュリズムと言う者がいる。だが、ルペンと橋下徹は似たところはあるかもしれないが、その主張は異なるし、支持層も違う。メランションと山本太郎も同じことが言える。

 そもそも、ポピュリズムとは何か。ウィキペディアでは、「有権者を「エリート」と「大衆」に分けた上で、2つを対立する集団と位置づけ、「大衆」の権利こそ尊重されるべきだと主張する政治思想をいう。」と定義されている。だが、この定義にはいささか疑問を感じる。メランション、ルペン、トランプ、サンダース、いずれも、広く大衆全体をその支持層とする訳ではない。また、「エリート」とは誰を指すのかも明らかではない。テレビでよく目にする大学教授などはポピュリズムが敵視するエリートなのか、それとも、主張によりエリートに分類されるのかどうかが決まるのか、はっきりしない。また、ポピュリズムを和訳するときには、「大衆迎合」、「衆愚政治」、「反知性主義」などという否定的な用語が割り当てられることが多い。しかし、これは相手を非難する時によく使うレッテル貼りであり、妥当な訳語とは言い難い。日本では、ポピュリズムと聞くと、すぐに悪い思想や政治運動だという印象を持つ者が多いが、訳語に影響されて適切な評価ができていない。

 ポピュリズムの主張には、穏健な手段で、それを提言するのであれば、レイシズムやヘイトなどを除けば、傾聴に値するものが少なくない。だから、少なからぬ人々から支持される。その一方で、ポピュリズムがしばしば危険視されるのは、その思想内容や政策よりも、その政治行動に理由がある。ポピュリズムは、エリートを敵視し、こき下ろすことを通じて、社会に強い不満を持つ者たちを扇動し熱狂させ、権力を掌握し自分たちの理念を社会に押し付けようとする傾向がある。そして、最悪、権力掌握後には、独裁体制を敷き反対派を弾圧する。ロベスピエールの恐怖政治、ナチスの独裁政治などにその典型的な姿を見ることができる。ここにポピュリズムの恐ろしさがある。つまり、ポピュリズムは大衆の意見と利益を重視するという面では民主制に近いのだが、その政治行動に民主制と人権を破壊する危険な側面がある。

 その意味で、現代の欧米や日本におけるポピュリズムはさほど危険なものはない。ルペンの国民連合は移民に厳しいことから極右と称されることが多いが、ファシズムではない。トランプも支持者が議事堂に突入したときには慌てて止めに入っている。メランションやサンダースも、レーニンや毛沢東の過激さはない(注)。それゆえ、彼と彼女たちの政策や行動は、レイシズムやヘイト、暴力的な行動などに繋がらない限りは、普通の右翼的、左翼的な政治活動と評価してよい。
(注)レーニンや毛沢東は前衛党の役割を重視する点でエリート主義的であるが、同時に大衆動員により権力を維持するという点で、ポピュリズムと言える。つまり、ポピュリズムとエリート主義は必ずしも対立するものではない。むしろ共存していることが多い。

 むしろ、問題は、社会の成員をエリートとエリートに苦しめられる大衆という二分法で分類、評価するポピュリズムに対して、二分法的な見方を排し複眼的な視点で社会を分析し、恵まれない人々への配慮を重視しながらも政治行動においては熟議を重視する穏健なリベラリズムが後退し、その結果、ポピュリズムが台頭しているということにある。リベラルが社会の諸課題を解決することができず、高学歴のエリート層の代弁者に過ぎないとみなされるようになっている現実こそが問題なのだ。右翼や左翼があり、それが力を持つことは悪いことではない。いや、両翼を欠く社会の方がずっと不健全だろう。しかし、社会が極端な方向に流れ分断が広がることを防ぐためには、穏健なリベラルの存在が欠かせない。それゆえリベラリストたちが現実を良く調査、分析し、市民と対話し、人々の不満や不安がどこにあるのか、その背景にあるのは何かを適切に認識し行動することが求められる。そして、それを通じて、リベラリズムを核として、リベラリズムと両翼のポピュリズムが調和する社会が望ましい。


(2022/7/8記)


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