☆ 国民審査 ☆

井出薫

 在外邦人が最高裁判事の国民審査ができない現状は違憲とする最高裁判決が下った。法の下での平等からして当然の判決だろう。だが、今の国民審査には問題が多い。

 審査は最高裁判事に任命されてから最初の衆院選に行われる。そして、その後は10年おきに審査が行われる。最高裁判事の定年は70で、就任するときには60を超えていることが多い。つまり、たいていは一度しか審査を受けない。たとえば60で就任、直後に衆院選があると、判事として大きな仕事をする前に審査があり、10年後には定年になっているから二度目の審査は受けない。審査は、対象となる判事が、最高裁判事という法の支配にとって極めて重要な役職に相応しい人物かどうかを審査するものなのに、これでは適切な審査はできない。審査が形骸化していると指摘されることがあるが、現行制度では当然の帰結であるように思える。

 そもそも国民審査制が妥当なのかどうかにも疑問がある。民主制なのだから当然という意見もあるが、下手をすれば判決が移ろいやすい世論に支配されることになりかねない。判決は世論が決めるのではなく、あくまでも法に則り判事が自らの良心に従い決める。だから、時には世論の多数意見と判決が異なることもある。しかし、それは司法の独立を堅持するためにはやむを得ない。世論が判決に影響を与えるようになれば、司法の独立は失われ三権分立は崩壊する。世論は移ろいやすく、偏りやすい。ロシア国民の多くはウクライナへの軍事侵攻を支持している。太平洋戦争開始時に世論調査をしていたら、おそらく当時の日本国民の多くはそれを支持していただろう。ロシアや当時の日本は民主制ではなかったという意見もあるが、民主制国家でも多数意見が正しいとは思えないことはたくさんある。それゆえ世論に阿ることなく、憲法を頂点とする法と過去の判例に基づき判決を下さなくてはならない。法や判例に不備があると思われる場合は、判決を修正するのではなく、まず国会で法を改正することが求められる。つまり、国民は判決に不服があれば判事の罷免を要求するのではなく、国会議員に対して法の改正を求めるべきなのだ。それゆえ、国民審査では、個々の判決の是非を審査するのではなく、個々の判事がその職責を果たすに相応しいかどうかを審査する必要がある。だが、審査の前に報道や言論が報じるのは、もっぱら「これこれの裁判で○○判事は△△の判決を下した」ということばかりで、職責に相応しいかどうかを判断する材料を国民に与えていない。これでは、イデオロギーで判事の審査を行うことになりかねない。これまで審査で罷免された者はいない。これに不満を持ち「分からなければ×を付けろ」などと主張する言論人がいるが、無責任だと言わなくてはならない。

 国民審査制は無意味だとか、廃止するべきだという意図はない。だが、現行の十年に一度という審査では適切な審査は行えない。また、司法の独立を堅持するためには、不毛なイデオロギー論争を排し、審査をどのような観点で行うべきかについて国民を啓蒙する必要がある。今の制度を変えるには憲法改正が必要で、それをすぐに求めるつもりはない。しかし、より良い制度にするために、真摯な議論が行われることを望みたい。


(2022/5/27記)


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