☆ 量子技術の可能性 ☆

井出薫

 世界各国で量子コンピュータの開発競争が繰り広げられている。2019年には、グーグルが、最速のスーパーコンピュータで1万年掛かる問題を53量子ビットの量子コンピュータを用いて200秒で解いたと発表して、世界的に大きな話題となった。

 量子コンピュータなど量子論の基礎原理を使った量子技術は、人類の未来に新たなる一ページを飾ることになると期待されている。ただし、まだまだ先は長く、すぐに広く利用されるようになるわけではない。また誤解されている面もある。

 量子論の世界では、古典物理学と異なり、物理的な状態は重ね合わせで表現される。たとえば電子は上向きスピンと下向きスピンの二つの状態を持つが、古典物理学の世界ならば、電子のスピンは上向きか下向きのいずれかであり、それ以外にはない。いっぽう、量子論に拠れば、電子のスピンは一般的に上向きと下向きの二つの状態の重ね合わせとして存在する。ただし、スピンの観測を行うと上向きか下向きのいずれかの状態になる。つまり、重ね合わせの状態を直接観測することはできない。ここに、驚異的な計算速度を実現する量子コンピュータの秘密がある。古典物理学の原理に従う古典コンピュータでは、32ビットのプロセッサでは、一度の演算で32個の(0か1の)情報を操作できる。いっぽう、量子コンピュータでは、32量子ビットのプロセッサで、一度の演算で2の32乗個=約43億個の情報を操作することができる。32と43億、1億倍以上、グーグルの53量子ビットの量子コンピュータが最速のスーパーコンピュータの10億倍の速度で問題を解いたということは、この数字からだいたい想像が付くと思う。古典コンピュータのビットは1か0だが、量子コンピュータの量子ビットは1と0の重ね合わせになる。重ね合わせの係数は二つある。このため、一度の演算で2の(量子ビット数)乗の情報が操作できる。だから超高速計算が可能となる。

 しかし、ここで、量子コンピュータが実用化されれば古典コンピュータであるスーパーコンピュータは不要になると勘違いをしてはいけない。先に述べたとおり、重ね合わせの状態を直接観測する(=演算結果を読みだす)ことはできない。電子スピンの場合ならば読みだした結果は上向きか下向きのいずれかしかない。それゆえ、演算は2の(量子ビット数)乗でも、読みだせる情報は量子ビット数に限られる。つまり、量子コンピュータであらゆる問題が古典コンピュータよりも高速で解ける訳ではない。スーパーコンピュータ並みの汎用性と処理速度を持つ大規模な量子コンピュータを製造することはおそらく不可能であり、量子コンピュータが実用化されればスーパーコンピュータが不要となる訳ではない。また、量子状態を安定的に維持することは難しく、ノートパソコンやスマホに量子コンピュータが実装されることはまずない。量子AIを実現することで、現代のAIの課題がすべて解決される訳でもない。量子コンピュータは素晴らしい技術だが、限界はある。

 では、量子コンピュータで古典コンピュータより遥かに高速で解くことができる問題にはどのようなものがあるだろう。代表例が素因数分解だ。そして、このことが世界に衝撃を与えた。なぜなら、インターネットで使用されているRSA暗号は素因数分解に極めて長い時間が掛かることに基づいているからだ。もし、素因数分解を短時間で解くことができるようになると、RSA暗号の安全性は失われる。幸いなことに、現時点で存在する量子コンピュータではRSA暗号を破るほどの力はない。理由は量子ビット数が足らないからだ。そして、量子ビット数を増やすことは簡単ではない。だが、技術進歩により、いずれはRSA暗号を短時間で解く量子コンピュータが実現されると考えられている。だから、RSA暗号に代わる暗号方式が求められる。

 そこで、登場したのが量子暗号だ。これも量子論の基礎原理に基づいている。前に述べたとおり、量子状態を直接観測することはできない。このことは、観測をすると必ず量子状態を擾乱することを意味する。そこで、この量子論の原理を利用して絶対安全な暗号システムを構築することができる。このシステムでは最初に暗号化された情報を復号するための1回限りで使える暗号鍵を送る。そのあとで、暗号化した情報を送り受信側では暗号鍵を使って復号する。情報を盗もうとする者はまず暗号鍵を知る必要がある。そのためには盗聴が必要となる。ところが、盗聴とは物理学的に言えば観測をすることに等しい。それゆえ、量子論の原理により、盗聴すると必ず伝送される量子状態は擾乱される。そして、擾乱されたことを受信側は検出することができる。そして擾乱されたことを知ると受信側はその暗号鍵を廃棄し、送信側にそのことを通知する。すると送信側は新たに鍵を作り直す。こうして盗聴は不可能となり、暗号化された情報が盗まれ解読される心配はなくなる。こうして、量子コンピュータが実用化されても安心して暗号通信を行うことができる。

 ここでは、量子コンピュータで高速で解くことができる問題として素因数分解を取り上げたが、他にも高速化することができる問題が色々とある。たとえば、最短ルートの検索、化学物質の設計などへの応用が期待されている。このように量子技術は現代社会を一変させる可能性を秘めている。ただし、量子技術は万能ではなく、また実現は決して容易ではないことを忘れてはならない。


(2022/4/8記)


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