☆ 建設的な議論を ☆

井出薫

 昨年12月、武蔵野市で、外国籍住民に日本国籍の住民と同等の条件(三か月以上在住)で住民投票権を与えるという条例案が議会に提出された。条例案は否決されたが、大きな論争を呼び、市役所前に反対を叫ぶ街宣車が現れる事態にまで至った。論争の中で、「条例案を認めたら、在日中国人が大挙して武蔵野市に押し掛け、住民の過半数を占めることで市政が乗っ取られる。」という批判をする者がいた。だが、このようなことは現実にはあり得ない。また、条例案が成立しなくとも、市民の半数を在日中国人が占める事態になれば、どのみち市政はその意向を無視できなくなる。こういう批判は条例案の意義を無視した極論であり、建設的なものではない。

 17年に成立した共謀罪に対して、治安維持法の現代版だという類の批判をする者がいた。だが、思想統制を目的とする治安維持法と、国連条約を背景に薬物や銃器の密売、密入国の斡旋などを行う犯罪組織の取り締まりを主目的とする共謀罪は性質が異なる。この批判も、先の条例案批判とよく似ている。

 確かに、外国人に等しく住民投票権を与える条例も共謀罪も悪用される恐れがないとは言えない。だが、現実にはほとんどありえないし、万一そのような企てがあっても阻止することができる。このような極論をもって相手の主張を退けようとする姿勢は、分断を生むだけで建設的な議論に繋がらない。

 近年、このような極論や論争の相手に「反日サヨク」、「売国奴」、「差別主義者」などのレッテルを貼ることで議論を封殺しようとする姿勢が目立つ。尤も、このような排他的な態度は50年代から70年代にも広く見られた。東西対立が厳しい時代で、連合赤軍によるリンチ殺人事件など、むしろ今よりも遥かに過激だった。筆者も学生時代、自民党支持の学友に「保守反動」、「帝国主義」などのレッテルを貼っていたことがあった。あの当時と比較すると今の方がマシだ。ただ、当時はネットがなかった。論争は基本的に顔を合わせて行われ、一部の過激派を除くと、口角泡を飛ばして論争していても、ある程度は自制し、相手の立場を考える余裕が少しはあった。だが、今はその余裕が全くない。言ったことは一瞬で多方面に伝わり、時には炎上という現象を引き起こす。また自分と同じ意見を表明する者をみて自分は圧倒的多数派だと錯覚する者が増えた。眞子さんの結婚を批判する者の中には「国民が望まない結婚」と決めつける者をしばしば目にするが、世論調査では賛成する者が多く、筆者の周囲でも心配する者はいても、特段反対する者などいない。そこには、自分の気に入る意見だけに耳を傾け反対意見は無視し、勝手に自分を世界化するという姿勢が如実に現れている。ネットで陰謀論が溢れるのも、こういうメカニズムによるのだろう。

 環境問題、感染症対策、格差の是正、差別の解消など、現代社会の主要な課題の多くは、独断的な主張ではなく、何が良い策かを皆で議論し、粘り強くコンセンサスを得るような手法を不可欠とする。ところが現実は真逆になっている。ネットの普及は民主を促進するはずだったが、むしろ抑圧している。どうすれば、この状況を変えることができるのだろうか。それが分かれば誰も苦労しない。ただ、大切なことはやはり訓練なのだと考える。学校教育の場だけではなく、職場、地域社会など多様な場において、寛容の精神を育み、相手の主張に真摯に耳を傾け、独断的にそれを退けることを控え、よく考えて自分の意見を述べる、こういう態度を身に付けていくしかない。そして、その訓練はネットではなく、対面であることが望まれる。近くで顔を合わせることで初めて本当の相互理解が進むからだ。


(2022/1/14記)


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