☆ 財政健全化か積極財政か ☆

井出薫

 財務事務次官が雑誌に、財源の裏付けなしに減税を約束したり、給付金を支給したりするのは無責任だとする論説を寄稿し、波紋を呼んでいる。確かに、これまで政治家は選挙目当てで、給付金や補助金、減税などを財源の裏付けなしに公約として掲げ、それがいまの巨額の財政赤字を生んだという面はある。歴史的に見ても、政治家は常に選挙に勝つためや戦争を遂行するために、巨額の国債を発行し、高度のインフレで経済を傷つけた。その反省で出来たのが中央銀行制度で、政治家の恣意的なバラマキを抑止し物価を安定させることを目的としてきた。そこでは、財政健全化が経済運営の最重要な指標とされた。その観点からすれば事務次官の批判は一理ある。

 だが、バラマキ的な面はあるにしても、財政赤字の解消を第一目標として、財源の裏付けのない支出を拒否するという考えには同意しがたい。それは長く日本の経済を苦しめてきたデフレを深刻化させるからだ。現代貨幣理論(通称MMT)は、まず財源があり、そこから支出するという考えを批判する。自国通貨の発行権限を持つ国家では、通貨は政府(または政府の関連機関である中央銀行)が発行し、市場で流通する。その結果経済活動が行われ、その一部が税金として回収される。つまり、財源(税収)があり支出するのではなく、支出することが先で、結果的にその一部を税として回収する。つまり、順番があべこべだとMMTは主張する。MMTは、この思想のもと、財政赤字も財政赤字が膨らむことも大きな問題ではないと考える。確かに、自国通貨を発行できる限り、国債の利払いと償還ができなくなることはない。新たに通貨を発行すればよいからだ。ギリシャはユーロ圏に入り通貨発行権限を放棄した。アルゼンチンは外貨建てで国債を発行した。だから、両国はデフォルトになった。だが、日本は通貨発行権限を保持し円で国債を発行しており、そのようなことは起きない。むしろ、財政赤字を問題化することで、経済は停滞し、社会保障と福祉の切り捨てが行われてきた。発想を変えて、積極的に財政出動をするべきだと、MMTの支持者は主張する。

 MMTは決して、いくら財政出動をしても(高度の)インフレは起きないなどとは言っていない。財政赤字は問題ではないが、代わりに、インフレ率と失業率を経済運営の指標にするべきだと主張している(MMT論者の一人ケルトンは就業保証プログラムを実施し、完全雇用を実現するべきと主張する)。つまり、インフレが起きうることは認めており、それが起きないように慎重に経済運営をすることを求めている。MMTはヘリコプターマネー論とは異なる。

 日本が長くデフレに悩んできたこと、アベノミクスで大規模な金融緩和をしたにも拘らず、インフレが起きず経済成長も思うように進まなかったことを考えるとき、財政赤字を過剰に問題視し、財政健全化一点張りの事務次官の主張には同意しがたい。それを主張するのであれば、MMTとそれに基づく積極財政論が間違っている、あるいは不適切であることをしっかりと説明する必要がある。さもないと、財政健全化のために、社会保障や福祉を切り捨てた挙句、景気を後退させることになるという主張に十分な反論ができない。事務次官と財務省の主流である財政健全化論者たちは、戦前、あるいは高度成長期のインフレのトラウマで、財政赤字はあってはならないとする思想に根拠なくしがみついているだけではないだろうか。

 では、財源を気にせず、積極的に財政出動しさえすればよいのだろうか。MMTも野放図な支出がインフレを招くことは認めており、財政出動を立案するときには、需要増に伴い供給が増加し過度のインフレが起きないような計画策定が必要だと指摘している。だが、そのようなことが本当にできるのだろうか。高度なインフレが起き、それを制御するために増税し、結局景気を大きく後退させることになる、あるいはスタグフレーションが起きることはないのか。特に、財源不要と考えたときに、政治家や財務省以外の官庁がやたらと予算計上して財政を肥大化させ無駄なものを作り出すことはないのか。そういう疑念は残る。つまりMMTに基づく積極財政にはリスクが伴う。さらに、もう一つ問題がある。MMTは、完全雇用を目標として就業保証プログラムを用意する、社会保障と福祉を充実させるなどリベラルな経済政策だが、MMTでは膨大な利益をあげる大企業や高額所得者・大資産家などへの課税へのインセンティブは下がる。そのようなことをしなくても経済はよくなるとされるからだ。MMTも税を所得の再分配に活用すると主張する。だが財政健全化論者よりは、増税への意志は乏しくなる。必要ないからだ。米国の民主党左派のサンダースがMMTに与しないのはこの点を考慮してのことではないだろうか。

 このようにMMTに基づく積極財政政策は魅力があるがリスクもある。社会は実験室ではなく、実験が失敗だったでは済まされない。その代償は限りなく大きい。それゆえ、インフレや無駄な支出を抑制するために、財政赤字も一つの指標として用いることが望ましい。要するに、伝統的な財政論とMMTを併用する経済政策が有望で、かつリスクも小さいと思われる。いずれにしろ、財政健全化を第一目標とするのでは、日本経済は低迷が続き、社会保障と福祉は切り捨てられていく。それだけは何としても避ける必要がある。斎藤幸平氏が主張する脱成長コミュニズムが実現できれば環境問題も含めてすべて解決となるのだろうが、それは少なくとも当面は不可能なのだから。


(2021/10/15記)


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