☆ 民主と人権を擁護するために ☆

井出薫

 ミャンマーと香港で民主と人権が抑圧されている。どのような社会を作るかは、それぞれの国で決めることで、他国が干渉するべきことではない。だが、民主と人権が抑圧されようとしているとき黙認する訳にはいかない。

 民主と人権が普遍的な理念と認められるようになったのは、それほど古いことではない。18世紀のカント、18世紀から19世紀前半に活躍したヘーゲルなどは民主制には懐疑的で、むしろ君主制を支持していた。カントもヘーゲルも自由の権利を重視したが、現代的な感覚からすれば、権利の制限は強かった。たとえばカントは国家に対する市民の抵抗権を認めていない。西洋社会においても、民主と人権が正しい政治体制、政治思想だと広く信じられるようになったのは20世紀に入ってからと言ってよい。また、現代においても、世界全体を見れば民主派が多数を占めているとは言えない。独裁的な政治体制を敷く国、選挙制度はあるが民主制が機能しているとは言い難い国、人権が制限されている国が多い。また、一部のマルクス主義者は、現代の民主や人権はブルジョア的なものであり、その自由の権利とは搾取の自由を意味し、その民主制はブルジョア支配の道具だとする。彼(女)らにとって、真の民主と人権は、共産主義社会においてのみ実現される。このような考えを取る者は、大抵において、共産党支配への市民の抵抗権を認めない。香港で起きている事態はその典型だと言ってよい。

 筆者を含めて戦後民主主義教育を受けてきた者は、民主と人権の優位性は疑う余地がないものとして受け入れている。だが、その優位性は現代においても自明のものではない。19世紀後半に活躍し、現代において最も人気が高い哲学者の一人であるニーチェは、民主制には極めて否定的で、民主や人権思想の根底には弱者のルサンチマン(通常、「復讐心」と訳されるが、日本人の感覚での「復讐心」とはちょっと違う)が隠されていると考えていた。ニーチェにとって、強い者、優れた者が支配することこそが正しいことだった。西洋哲学の原点とも言うべきプラトンやアリストテレスもその点では変わることはない。20世紀最高の哲学者の一人と目されるハイデガーはナチを支持したとして批判されているが、ハイデガーもニーチェに倣い、ある種の優秀者支配を支持していたのではないかと思われる。マルクスとエンゲルス、そしてレーニンは民主と人権の重要性を認識していた。しかし、資本主義社会における民主と人権を過小評価し、共産主義革命と革命後のプロレタリア独裁を重視し、マルクス主義を否定する思想を含む多様な思想の共存には否定的だった。

 このように、民主と人権の根拠は決して自明ではない。全ての者は平等であるから、必然的に、民主と人権の優位性が導かれると考える者もいるが、証明にはなっていない。そもそも全ての者は平等ではない。お金持ちの家に生まれる者もいれば、貧しい家に生まれる者もいる。才能に恵まれた者もいれば、これと言った才能のない者もいる。丈夫な者もいれば、病気がちの者もいる。幸運な者もいれば、不運な者もいる。また、人は平等だとしても、民主と人権が自動的に導かれるわけではない。慈悲深い教皇や専制君主が支配し、民衆が等しくそれに従っている方が効率的で人々は幸せになれるという考えもあり得る。また、民主と人権が相反することもある。なぜなら民主はしばしば多数派支配、少数者の切り捨てに繋がるからだ。公共の福祉と自由の権利の兼ね合いをどうするかも難しい課題として存在する。

 民主と人権はこのように確固たる基盤を持つものではない。むしろ、それは極めて脆弱だと言わなくてはならない。ミャンマーや香港だけではなく、トランプ支持者が議会に乱入した事件などは、民主国、人権が擁護されているとされる国や地域でも、それが容易に覆されるものであることを示している。政権が恣意的に官僚の人事権を行使し、それが事実上黙認されている日本、男女平等がなかなか進まない日本も、民主と人権の脆弱性の事例として挙げられる。

 それゆえにこそ、民主と人権を擁護し発展・普及させるには、市民が国内外を問わず、広く世界の人々と連帯し、真摯に議論を行い、民主と人権が抑圧されている時にはそれに抗議し、政府に改善を求めていくことで、その質を高めていくことが欠かせない。民主と人権は与えられた結果というよりもプロセスなのであり絶え間ない人々の努力を不可欠とする。ミャンマーや香港で起きていることを、自分には関係のないこととして黙認することはできない。黙認するようでは、私たちは、実質的に、民主と人権を放棄していることになる。


(2021/3/6記)


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