☆ 年金問題とは何か ☆

井出薫

 金融審議会の報告書が波紋を呼んでいる。無職の高齢世帯(夫65歳、妻60歳以上)の平均的な実収入は月21万円、実支出は月26万円で、月5万円の赤字となっている、そのため、95歳まで生きるとすると総額で2千万円の赤字になる。だから、資産運用などで不足分を補うように努めることが望ましい。報告書はこう論じる。これは報告書の内容の一部に過ぎず、ほかの様々な問題、認知症の問題、金融サービスの在り方の問題など様々な論点が議論されており、2千万円という数字だけで報告書の是非を評価するのは不公正と言わなくてはならない。選挙が間近となり、政治家がこの2千万円という数字を都合よく利用しているというのが実情だ。すでに、雑誌記事やWEBの情報等で、公的年金だけでは老後の生活には不十分だという事実は広く周知されている。日本は年金制度が充実しているから、貯金など資産がなくとも大丈夫だと信じている者がどれだけいるだろう。

 しかし、報告書は、その意図とは別に、国の責務は何なのかという問題を提起している。憲法25条で、国民は健康で文化的な最低限度の生活が保証されている。そのために生活保護や公的年金などの社会保障制度が整備されている。そこで問題となるのは社会保障制度が憲法25条に見合うだけのものとなっているかどうかだ。もし月26万円が最低限度だとすると、現状は憲法違反であり、政府は年金や生活保護費を引き上げる義務があることになる(注)。
(注)野党は、この点を突いて、年金の平均5万円のアップを政府に要求するか、選挙公約とするべきなのに、民主党政権時代の公約違反(4年間は消費税を上げないと言ったにも拘らず、3年で増税を決めたこと)に懲りたのか、「政府は国民を裏切った」式の批難に終始している。「報告書は受け取らない」とか、「選挙前にこんな報告を出すな!」などと文句を言う自民党はお粗末だが、野党も劣らず情けない。これでは選挙に行かない者が増えるのも当然だろう。

 さて、26万円の内訳をみると、娯楽費など必ずしも生計維持に不可欠な費用だけではなく切り詰めることが可能と思われる支出が相当に含まれている、さらに、年金だけでは生計維持が困難となれば、生活保護など困窮者を支援する制度もある。日本は、財産権が憲法で保証され、個人の自由と尊厳が最大限保証される個人主義の社会であることからも、現状を憲法違反だと判断するのは無理がある。また、国が、最低限度の生活は保証するが、それ以上の豊かな生活を望む者は自分で貯えをしてもらいたいと言うことも違憲とは言えない。そして、そのための方法(どの程度の貯蓄を、どのようにして形成するか、など)を国が検討し、その情報を公表することは、決して国民を見捨てることではなく、むしろ助けることになる。その意味で、金融審議会報告書は、批難すべきものではなく、むしろ有益な報告書だと肯定的に評価してもよい。

 だが、報告書には重大な欠陥がある。それはすべて平均値で議論し、格差を考慮していないことだ。働かなくても、株の配当や土地家屋の賃料収入で莫大な収入を得ている高齢者がいる。そこまで極端な例ではなくとも、公的年金の他に、企業年金、個人年金、株の配当や土地家屋の賃料などで、現役世代の平均的な実収入と同等の収入を得ている者もいる。そして、そういう者の多くは貯金や株など金融資産も平均以上に保有している。さらに現役時代に納付した厚生年金保険料が多いからそもそも公的年金の受給額も多い。その一方で、21万円以下の実収入で、夫婦二人だけではなく、認知症を患っている両親や引きこもりがちの子どもの家計を支えなくてはならない者も多数いる。また、60すぎまで正規雇用の職を得られず非正規雇用のままで過ごしてきた者などは、老後の生活は楽ではない。社会保障制度は、本来、病気などで働いて自分の生活の糧を得ることが難しい者、真面目に働きながらも老後のための貯蓄を作ることができず、苦しい生活を余儀なくされている者たちなどを助けるために制定されている。「こういう風にすれば無理なく資産形成ができますよ。」と言われて、「はい、わかりました。・・おかげさまでたくさん貯金ができました。」と言えるような者たちは、たいてい、公的年金の他、企業年金、個人年金、配当などを受け取っており、意識して資産形成などしなくてもよい恵まれた者たちがほとんどだろう。つまり、現代の格差社会の下、老後に備えて貯蓄をしなくてはならない者は貯蓄ができず、貯蓄をする必要がない者は、意図せずとも貯蓄ができてしまう。だから、資産形成に努めましょうという金融審議会の報告書の提言は、現実を見ていない空疎なものに留まる。また、この点で、現行の公的年金制度は不完全なものであり、国は果たすべき責務を果たしていないと評価しなくてはならない。むしろ、報告書は、こう提言するべきだった。「収入総額や総資産に応じて公的年金の支給額を調整する。たとえば現在、公的年金が20万円、企業年金、配当、その他の収入が20万円、合わせて40万円の実収入がある者については、公的年金を15万円に引き下げ、その分を公的年金だけの者たちの年金に回す。」と。こうすれば、資産形成に回さなくてはならない額は減り、多くの者が安心して暮らすことができるようになるだろう。年金の問題とは、支給額の問題だけではなく、むしろ、それ以上に、社会格差をいかに縮小するかという問題なのだ。その点が考慮されていない点で、報告書は落第で、本質を無視して選挙目当てで騒いでいる政治家や一部報道はお粗末だと言わざるを得ない。問題の本質を弁えて議論してもらいたい。  


(R1/6/16記)


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