☆ お節介も必要 ☆

井出薫

 小学4年生の少女が父親に虐待されて死亡した。学校に虐待されていることを伝えていたにも拘わらず、少女を守ることができなかった。昨年の3月にも同様の事件があり、5歳の少女が命を落としている。なぜ子どもを守ることができないのか。

 児童相談所など子どもを保護し、虐待する親や関係者を告発すべき組織が十分に機能していないことが最大の理由だろう。児童相談所は専門の職員が、量的にも質的にも足りていない。今回の事件でも、いったん保護したのに、虐待する親の要求を拒否できず、子どもを帰宅させたことで悲劇が起きた。こういう親のやり口は大体決まっている。恫喝する、訴訟を起こすと言ったり有力者の名前を口にしたりして相手を脅す。だが、経験豊富で法律や判例にも明るい専門家であれば、こんな脅しくらいで腰が引けることはない。訴訟など起こせば負けるのは虐待をしている親であり、有力者など虐待に加担したと疑われたくないから、動きはしない。動いたところで大したことはできない。日本は独裁国ではない。しかし、そうは言っても、短期間の研修を受けただけで経験の浅い職員などでは、相手の剣幕に恐れをなして。要求を呑んでしまうこともあるだろう。経験豊富で、理不尽な振る舞いをする者に決して屈することのない専門家を複数名、各児童相談所に配置することが絶対に必要だ。また、学校や警察、行政との連携も欠かせない。

 虐待を抑止するために罰則を強化する必要があるとの意見も根強い。現状では、児童虐待は1年以下の懲役または100万円以下の罰金で、刑は軽い。初犯で、反省を装えば罰金で済む可能性が高い。これでは抑止にならない。また、民法では、親には子どもの監護及び教育に必要な範囲内でその子を懲戒すること(体罰を含むと解釈される)ができるとされている。監護と教育に必要な範囲と明記されてはいるが、必要な範囲かどうかの判断は難しく、虐待の抑止にはならない。懲戒の権利を容認した条項(民法822条)を削除するか、体罰や恫喝など精神的圧迫の禁止を追記することが必要と思われる。

 だが、組織を強化し、罰を重くしても、それだけでは子どもを守れない。児童相談所も警察も、四六時中、すべての子どもを監視することはできないし、するべきでもない。教育機関はより多く子どもと接する機会があるが、それでも限界がある。だから、私たち一人一人が、たとえ他人の子どもでも、守る義務があると認識し、時には積極的に行動する必要がある。核家族化した現代、私たちの多くは、他人の子どものことに口を出すと余計なお節介だと非難されることを恐れる。確かに、多くの場合は、余計なお節介をする必要はない。だが、ほとんどの親は子どもを大切にするとは言え、一連の事件が示す通り虐待をする親も少なからずいることは事実であり、また子どもを大切にしていた親が何かのはずみで虐待をするようになることもある。必要以上に、他人の家庭に口出しするべきではないが、子どもが泣いているとき、元気がないときなど、子どもや親に話しかけることは大切だ。それが、虐待を防止し、子どもを助けることに繋がる。また、子育てで悩む親の支援にもなる。もし、それに対して相手が高圧的な態度に出てきたら、それが虐待の存在のサインになる。それを機に児童相談所や警察に相談すればよい。核家族化の時代、子どもは逃げ場所を失っている、プライバシー重視の現代、お節介は嫌われる。だが、子どもは弱く、大人の助けが無ければ自らの正当な権利を主張することも、逃げ出すこともできない。子どもの安全にかかわることでは、人はお節介焼きにならなくてはならない。  


(H31/2/11記)


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