井出薫
人工知能がちょっとしたブームになっている。先日もNHKで特集番組が放映されていた。だが、まさにブームという感じで、突っ込んだ議論がなされていない。 人工知能をめぐっては、人工知能研究の現状と課題、未来の予測だけではなく、他にも様々な議論や課題がある。たとえば、 「知能とはそもそも何かという哲学的な議論(人工知能とは何かという問いを含む)」 「人工知能の定義を行い、それを実現するための技術的な検討」 「人工知能と人間の知能の差異と同一性に関する哲学的な議論」 「人工知能と人間の知能の差異と同一性に関する理学的・工学的観点からの検討」 「人工知能と倫理に関する哲学的な議論」 「人工知能の経済効果に関する経済学的な検討」 「人工知能と政治や法、文化との関連を問う社会科学的な検討」 などを取り上げることができる。 これらの課題は完全に独立したものではなく相互に関連がある。人工知能と人間の知能に関する理学的、工学的な知見は、知能とは何かという哲学的な議論や人工知能と倫理に関する議論に影響を与えない訳にはいかない。そうは言っても、それぞれの課題は独立した課題として議論することができ、また安易に他の課題と混同しない方がよいことが多い。たとえば、倫理の問題を議論するときには安易に理学的、工学的な観点を援用するべきではない。 ところが、人工知能を取り上げている書籍や雑誌、テレビ番組、報道などを見ていると、これらの課題がごちゃ混ぜになっている。そのために、やたら人工知能を過大視して、すぐにも世界が根底から覆るかの如くに論じる者もいれば、逆に半世紀以上前のコンピュータ技術の延長に過ぎず社会への影響など僅かなものでしかないと否定的な主張をする者もいる。未来の予想も極端に楽観的かつ肯定的な者もいれば、悲観的かつ否定的な者もいる。つまり、議論がかみ合わない。だから読者、視聴者は自分の気に入った議論を鵜呑みにするか、分からないと無視するか、どうせ空騒ぎだと全否定することになる。 このような状況は以前にも経験した。そう、90年代半ばから今世紀の始め、インターネットが普及しだした頃のことだ。インターネットとはそもそも何なのか、何が凄いのかもよくわからないままにインターネット革命だ、IT革命だと大騒ぎをする者が現れ、逆にそれを全否定する者が現れ大きな論争になった。しかし、数年後には、結論が出ないまま有耶無耶になり、いつしか議論があったことすら忘れ去られた。 そして、今回も似たような状況になっている。パソコンは人工知能なのか?そうではないと言うのであれば何が欠けているのか?こう問われて、きちんと解答できる者はいない。NHKの特集では、人工知能を駆使した(とされる)台風の進路や影響の予測が取り上げられていたが、これは人工知能というよりもビッグデータの問題であり、事例として適切であったかどうかに疑問が残る。要するに、みな、特集番組を制作する者やその協力者たち−当然そこには専門家がいるはずだが−ですら、人工知能が何であるかが明確に理解できていない。そのような状況で、未来の予測をし、その社会的インパクトをどう捉えるべきかなどと議論をしても、実りある議論にはならない。 メディアは、どうしても物事をセンセーショナルに取り上げようとする。それが視聴率や雑誌、書籍、新聞の売り上げに繋がるからだ。専門家がそれに対して警告を発すればよいのだが、専門家も研究費の獲得や自分の売り込みなどで有利になるため、冷静な議論を呼びかけるよりも、むしろセンセーショナルな議論を助長するような発言をすることが多い。その結果、いつも不毛な議論に終わる。 それでもよいではないかという意見もある。「いずれブームは去る、それは新しい技術に人々の目を向けさせたことで役割を果たした、それだけのことだ。」だが、果たして、そうだろうか。インターネットは社会に根付いた。それは革命的な影響を社会に与えるほどのことはなかったが、今では当たり前の存在になった。だが、インターネットは、セキュリティなど多くの難問を抱えている。それはインターネットの普及時期にしっかりとした議論をしなかったことのツケと言わなくてはならない。インターネットは爆発的に普及したが、それ自体には、人間の知能に類するような機能はなく、電話網の延長線上に過ぎないという見方もできる。だが人工知能はそうはいかない。それは人間観、社会観そのものを根底から揺るがしかねない。それはインターネットよりも遥かに巨大で根源的な力を秘めている。だから単なるブームでもよいというわけにはいかない。しっかりと地に足をつけた議論が強く望まれる。そして、それを実現するには、メディアの冷静かつ合理的な対応が欠かせない。だが、そのためには、メディアの能力向上のための人工知能を最初に開発する必要があるようにも思える。 了
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