井出薫
日本国憲法施行から、今年5月で70年。この間に日本は大きく変貌した。経済は、戦後の混乱、高度成長、安定成長、バブル、バブル崩壊後の低成長と移り変わり、政治は保守対革新の時代から、保守中道の時代を経て、保守の時代へと変化した。何より生活環境が大きく変わった。人口は都市に集中し、核家族化が進み、これらの影響もあり少子高齢化が急速に進んでいる。身の周りにある商品は目覚ましく進歩を遂げ、単身者でも健康でさえあれば生活の不便を感じなくなっている。庶民のコミュニケーションは、井戸端会議からスマホとSNSに移行した。 しかし、憲法は全く変わっていない。憲法が素晴らしいから変える必要がないと言う者もいれば、変えるべき箇所はたくさんあるが変える機会がなかったと言う者もいる。70年代までは、改憲論者は決して多くはなかった。特に論争の的となってきた第9条については護憲が多数を占めていた。筆者が学生の頃(70年代)には9条支持者が7割を超えていたと記憶する。護憲と改憲が拮抗している現在と比べると雲泥の差と言ってよい。筆者と同世代で左翼思想に共感したことのある者は、「まさか、改憲が現実的な話題になるとは思わなかった」と言うことが多い。 だが、護憲派も改憲派も、熟慮と十分な議論のうえで、その立場を決め、その正当性を主張した者は少ない。いや、ほとんどいないと言ってよいだろう。護憲派はひたすら戦争の悲惨さと残虐性を情緒的に訴え、平和憲法の崇高性を主張する。護憲派にとって改憲は、少なくとも第9条に関しては、ありえない選択肢とされている。一方、改憲派は米国の押し付け憲法であることと9条の非現実性を強調し、改憲が不可欠だと主張する。改憲派にとって、護憲派は非現実な、お花畑論者とされる。だが、両者とも、自分が見たいもの、聞きたいもの、信じたいものだけを見て、聞き、信じ、他のことを見ない、聞かない、信じない。だから両者の間には建設的な議論が生まれない。見るものが違うのだから実りある議論になるはずがない。 筆者はどちらかと言えば護憲派で、若い頃は、改憲派の意見に耳を傾けず、独断的に改憲は間違っていると決め付けていた。しかし、今は少し違う。改憲派が見ているものが何かを尋ね、そこから改憲派の主張を吟味し、そのうえで、別の見方もあること、なぜ護憲なのかを論じる必要があると考えている。 護憲派の中には、改憲派との議論を避けようとする者がいる。改憲派は権力を持ち、国内外の情報をたくさん持っているから、議論を通じて、護憲派は非現実だという印象を国民に植え付けることができる。だから、相手の土俵に乗るべきではないと言う。だが、そういう考えは時代遅れだ。護憲が多数を占めていた時代はそれでもよかった。「憲法を守れ、戦争反対」と叫んでいれば、それで多数を維持することができたからだ。しかし、今は違う。護憲と改憲は国会の外でも拮抗している。護憲の意義を改憲派との議論を通じて明らかにしていかないと、段々と情勢は不利になる。護憲派は相手の土俵に乗ってでも議論をし、国民の支持を得る努力をする必要がある。 了
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