☆ 日本は健全か ☆

井出薫

 戦後71年、日本は経済成長を成し遂げ、生活は豊かになり、寿命は男女とも世界でトップクラスになった。衛生環境は改善され、汚染された河川や大気もかなり浄化された。諸外国には依然大きく後れを取っているが、徐々に男女平等が進み省庁の次官や大企業の社長に就任する女性も現れ、管理者クラスでは女性が珍しくなくなった。日本人はどちらかと言うと悲観的、ないしは悲観的に物事を論じがちで、半世紀前、筆者が小学生の頃から周囲を見渡すと「日本は悪い方向に向かっている」と評する者が少なくなかったが、総じて言えば半世紀で多くの改善がなされたことは間違いない。近年改憲を容認する者が増え、護憲派はそれを嘆き危機感を抱いているが、市民の中に積極的な改憲論者は少なく改憲をタブー視せず議論した方がよいと言う考えの者が増えただけであり、憲法の一字一句を絶対視し金科玉条のごとくそれを守れと叫ぶよりは寧ろ健全だと評価してよい。

 全体とすれば日本はよくなってきた。だが、「日本社会が今でも健全で将来を危惧する必要はないと言えるか」と問われると疑問と答えざるを得ない。

 政界は、民主党政権が失敗に終わり、自民党一強状態となっている。それにも拘わらず、相変わらず民主党は迷走し、維新と合同することは決ったらしいが党名も決められない。自民と連立を組む公明党は自民党の暴走を食い止める役目を果たしてきたが、ここに来て安倍政権の強さの前に、ただのアリバイ証明に使われるだけで歯止めにならなくなっている。

 大規模な金融緩和で緩やかなインフレを起こし持続的な経済成長を図るという安倍内閣・黒田日銀の経済政策は間違いではないと思うが、思うような効果が発揮されていない。安倍・黒田路線は、日本経済(生産・流通体制、国際関係、科学技術力、教育水準と市民のモラルなど)そのものは健全で、市場の貨幣量が足りないために景気が低迷しているという考えを前提にしている。しかし、経済政策の効果が限定的で、大企業と大量の株式などを保有する資産家だけが利益を得ているという現状を見ると、この前提が成り立っていないと考えざるを得ない。実際、安倍政権の経済政策を批判する者の多くは構造改革が欠かせないと主張する。批判者たちの主張は論理が一貫していなかったり、極論だったりして信用はできないが、小手先の金融政策や財政政策つまりマクロ経済学的な手法だけでは事態は改善されないという認識には一定の説得力がある。だが、ではどう改革すればよいのかと言うとこれと言った答えはない。安倍政権の経済政策を批判する民主党は「中間層に手厚い政策」などと言っているが、民主党政権時代にできなかったことを蒸し返しているだけで説得力がない。共産党の主張の多くは、良くも悪くもグローバルな市場経済という世界と日本の現実を無視しており現実性に欠ける。他の党は「国民生活を守れ」と言っているだけで中身がない。そもそも安倍政権自身が改革の必要性を認識している。ただ具体的なアイデアと政策がないから「地方創生」だとか「一億総活躍社会」などという中身の乏しいスローガンを掲げている。要するに、何か改革が必要なことは分かっているが、何をどう変えればよいのか分からない。発言する者は山ほどいるが信用できる者はいない。これが日本経済の現状だ。

 これらのことだけで日本社会の未来は暗いなどと言うのは公平ではない。近頃凶悪犯罪の報道が目に付くと言う者がいるが、犯罪数は増加しておらず、日本社会の秩序が乱れている訳ではない。期待したほどではないとしても省エネ技術や環境対策も進歩している。先に述べた女性の社会進出だけではなく、LGBTなどマイノリティの権利の擁護も、十分とは言えないが、拡がっている。ヘイトスピーチをするような者たちがいるが、ネットで騒ぐためにその数が大きく見えるだけで、実際はごく少数に過ぎず社会への影響はほとんどない。こうして考えると不必要に悲観する必要はないと言ってよい。

 だが、それでも健全かと問われれば、疑問と言わざるを得ない。経済は出口が見つからない。東京五輪までは外国人観光客が増加し景気はそこそこの水準を維持するだろうが、10年後は心許ない。少子高齢化や非正規雇用の増大で貧困層の増大が懸念される。いや適切な手を打たないとそれが現実になる。しかし経済活動の自由と規制の間の舵取りが難しく適当な政策が見当たらない。共産主義よもう一度!という考えもあるだろうが、良い共産主義などというものが存在しうるのかどうかが疑わしい。北欧のような社会民主主義による福祉国家路線は日本人の心情とも合致し、実現可能ならば目指すべき方向となりえるが、人口が日本の10分の1以下、ノルウェーの北海油田など資源が豊富で、民主主義の長い伝統を持つ北欧諸国の政策をそのまま日本に持ち込むことは難しい。政治に目を転じると憲法第9条が改正されることはないと予想するが、改正されれば影響は大きい。悪い影響しかないと断定するつもりはないが、日本だけではなく周辺国の平和にとってもマイナスが大きいと考える。

 いまの日本は未病つまり病気ではないが、これまでの生活を改めないと病気になる可能性が高いというのが現実だろう。シャープの破綻や東芝の事件はそれを暗示する。安倍・黒田の金融緩和、地方創生などのスローガンは悪くないが明らかに限界がある。このままだらだらと同じことを続けると毒になる恐れもある。打開策を立案することは容易ではなく、策を実行する段になれば至るところから抵抗がある。だが、いつまでも問題を先送りすることはできない。まずは独断的な議論を排し、現実を冷静かつ詳細に調査し、問題が何であるかを正確に把握し、可能な政策を見つけ出すことが求められる。そのためには思想の左右を問わず各界の人々そして市民の連帯が欠かせない。それゆえ今は憲法第9条の改正など世論を二分し、それを不可能にするような試みは避ける必要がある。


(H28/3/6記)


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