☆ 文明は維持できるか ☆

井出薫

 パリで温暖化対策のための行動計画が議論されている。勿論、各国が協力して計画を策定し実行することはよいことだ。温暖化の影響と推測される海面上昇で危機に瀕している地域もある。手を拱いている訳にはいかない。

 だが、どのような計画が策定され、実行されても温暖化の問題は容易には解決されない。なぜなら、温暖化の本質は、単に気温が上昇するという皮相的な事象にあるのではなく、人間社会の在り方そのものにあるからだ。

 地球には太陽から放出された膨大な量の電磁エネルギーが降り注いでいる。それを植物が利用し、二酸化炭素や水などの単純な分子から、生命を維持するために不可欠な様々な生体高分子を作り出す。この植物を第一次生産者として動物や死骸を分解する微生物などへと至る食物連鎖の中で、地球上のあらゆる生命体は太陽からの電磁エネルギーを、順次、仕事をする能力を失った熱エネルギーへと変換する。この役立たなくなった熱エネルギーは最終的には冷たい宇宙空間へと排出される。地球上のあらゆる生命体はこのエネルギー循環の中でその生を維持しており、そのことは人類とて変わるところはない。

 文明が発達する前の人類は、この自然のエネルギー循環の中で他の動物と同じような生活をしていた。食糧となるものを探し回り、狩猟採集し生を維持した。食糧がなくなっても直ちに困らないように食糧の一部は保存されていたが、それも限られていた。この時期、たとえ人類が絶滅しても、他の生命体と同じように、その痕跡は僅かに化石に残されるだけだった。

 だが農耕技術が発明されて状況は一変する。人類が存在しない限り絶対に存在しない道具や環境−畑、水田、灌漑、農耕道具など自然のままの生態系では絶対に作られないもの−が地球上に登場する。これこそが文明の誕生だ。

 なぜ人類がこのようなものを作り出す能力を持ったのかは分からない。自然淘汰が必然的にこのような能力を導き出すのか、単なる偶然だったのか、いまのところ誰も答えを知らない。もしかすると驚異的な知性を有する宇宙人が、実験のため、あるいは単なる娯楽のために人類の祖先に遺伝子操作を施したのかもしれない。いずれにせよ、農耕の発明に端を発し、人類は次々と新しい技術を発明し自然を自分たちの都合で改変していった。

 それでも、近代に入るまで、人類の文明は限られていた。未開の地は至る所にあり、また人口密集地でも、そのすぐそばには自然のままに近い環境が残されていた。科学的な知識は限られており、国王ですら感染症で呆気なく死んでしまうことが珍しくなかった。しかし、近代科学技術の進歩と産業の拡大で様相は一変する。人類は事実上の地球の支配者となり、20世紀には人口の急増もあり、自然環境を決定的に改変することになる。現代の科学技術に懐疑的だった哲学者のハイデガーが現代技術の本質を「存在への挑発」として特徴づけたのも強ち言い掛かりだとは言えない。

 しかし、事実上の支配者となっても、地球上に存在する限り、人類は太陽エネルギーを起点とするエネルギー循環から逃れることはできない。そして、地球温暖化の問題とは、人類の文明の拡大が、このエネルギー循環の枠内に収まりきれなくなったことに起因している。温暖化対策として、大気中から二酸化炭素を除く技術の研究開発が進められている。しかし無駄とは言わないが、大気中の二酸化炭素を除去するには資源の消費が必要となり、別の問題を生み出してしまう。福島原発の事故が起きるまで民主党は温暖化対策のために発電における原発の比率を上げることを検討していた。だが原発事故が起きなかったとしても、原発への切替は温暖化対策にはなっても、人類の文明を維持するということには役立たない。それは別の場所でエネルギー循環の枠組みを崩してしまう。不自然に拡散した放射性物質の処理は、増大した二酸化炭素の回収が難しいように極めて困難だからだ。

 要するに問題は、文明をこれ以上拡大することはできないということにある。ところが、それを認めることは極めて難しい。発展途上国の人々は先進国並みの生活を夢見る。先進国でも途上国でも、人間は同じ権利を持つ。だから途上国の人々が先進国の快適な生活を自分たちのために要求することは当然と言わなくてはならない。だが、それは実現不可能なのだ。おそらく、そのことに多くの人々が気付き始めている。だがそれを公に認めた途端に大変なことが起きる。平等の原則を廃棄して途上国の人々に耐乏生活を強いるか、先進国の富裕層が快適な生活を捨て世界の平等化を図るか、どちらを選ばなければならないが、いずれも現実的には難しい。人権思想が普及した現代、前者を容認することはできない。だが快適な生活に慣れた富裕層がそれを捨てることは甚だ難しい。しかも富裕層は権力を有しているから、自らの権益を手放すことはない。理念の次元では人権を擁護すると宣言しても、現実世界では自己の権益を守ろうとする。そしてそれがこの先変わることは期待できない。

 人類は過去には例がない危機に瀕している。だが、それは戦争やテロのようなリアルで逼迫したものではないから、なかなか私たちの視界に入ってこない。ただ漠然と「地球温暖化でこの先どうなるのだろう?」くらいの気分にしかならない。危機が誰の目にも明らかになるまでにどれくらいの猶予期間があるかはよくわからない。楽観的に考えれば、文明が拡大したとはいえ、消費する総エネルギー量はまだ太陽から流入するそれに対して1桁以上小さいから当分大丈夫だという見方もある。それならば途上国の人々の生活を改善し先進国レベルにすることも辛うじて可能かもしれない。だが、それでも、その過程で困難は増大する。エネルギー循環の枠組みからの逸脱が加速するからだ。そもそもそういう楽観的な見方の根拠は乏しい。地球以外の惑星に移住するという計画もあるが、言うまでもなく現実的ではない。

 だが、希望がない訳ではない。現代社会の富の多くは良い生を過ごすために不可欠なものではなく、寧ろ心身の健康を害する物が少なくない。それゆえ生産の対象を変化させることで、先進国と途上国の格差を縮小し、かつ経済成長を実現しながら、持続可能な社会を形成し、エネルギー循環の枠組みからの逸脱を最小限に留めることが可能だと思われる。そして、格差が解消されたところで、人類の生のあり方を根本的に見直して、文明を自然のサイクルと合致したものへと転換する。これで人類は他の生物と共に長く地球上で繁栄することができるようになる。これは夢物語だろうか。それが夢で終われば人類も終わる。行動するべき時が来ている。但し、それはただの温暖化対策ではなく、現代の産業や生活を抜本的に見直すという極めて困難な課題であることを自覚する必要がある。


(H27/12/13記)


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