☆ 民意 ☆

井出薫

 民意を如何にして政治に反映するか。代議制民主主義において、この課題の解決が極めて難しいことを、19日成立した安保法制は物語っている。

 議員は「自分は民主的な選挙で選ばれた」ことを強調する。しかし、選挙民は白紙委任をしたわけではない。自民党に投票した者は、「自民党が正しいと思う政策を実行すればよい。どのような政策であれ、私たちは支持し、制定された法や締結された条約を守る。」とは言っていない。ところが安保法制は、各種世論調査で不支持が支持を上回り、自民党に投票した層からも少なからず、「説明不足で拙速だ」という反対の声が上がっていたにも拘わらず、数に頼って自民、公明両党は強行採決し可決した。選挙民から白紙委任されている訳ではないという良識は、物の見事に無視された。

 だが、考えてみると、これまでも内閣総理大臣を含む国会議員、特に与党議員は白紙委任されているかのように次々と法案を可決成立させてきたことに気が付く。近々導入されるマイナンバー制、多くの難題を抱えている裁判員制度、ほとんど国民にその内容や問題点が伝えられないままに国会で可決成立している。民主党政権時代には、国民の反対多数にも拘わらず消費税増税が決定されている。

 国民の反対が多い政策は政権を弱体化させる、だから選挙を通じて民意は反映されるという考えがある。だがそれはいささか楽観的過ぎる。消費税増税のように国民の懐具合に関係する法律は確かに選挙に大きな影響を与える。野田政権は消費税増税を実施しなければ、政権を失っても、今より多くの議席を得ていただろう。しかし安保法制ではそこまでは行かない。安部政権の支持率は下がるかもしれないが、いま衆院総選挙を遣ったとしても、自公政権が退陣に追い込まれることにはならない。自民党は議席を減らしても過半数を得るか、悪くとも自公両党で楽に過半数を得ることはできる。選挙民は安全保障の問題だけで投票するのではない。他の政党や候補者との比較、政治家としての実績あるいは立候補するまでの活動、経済政策、米国や近隣諸国との外交政策などを総合的に考慮して、誰に、どの政党に投票するかを決める。「顔が良いから」で決めることもある。安保法制は大きな話題とはなったが、近隣諸国で戦争の危機が逼迫し国民の全てがそれを肌で感じ取っているという状況にでもならなければ選挙への影響は限られる。自民党支持者は、たとえ安保法制には反対だとしても、他の政党へ流れる割合は小さい。安保法制に関わりなく自民党と公明党を支持しない者の投票行動には何も変化は生じない。無党派層も、現在の野党の状況を考えると、野党に支持が集まるという展開になるとは思えない。自民党もそれが分かっている。だからこそ安倍首相の自民党総裁再選が無投票で決まった。要するに選挙という制度は民意の政治への反映を保証するものではない。

 さらに別の次元の問題がある。民主主義の根本問題、多数意見が正しいとは限らないという問題がある。消費税には今でも共産党のように税率ではなくその存在そのものを批判する声もある。しかし財政を考えると消費税の有益性は否定できない。だが、竹下政権の下で、消費税を導入した際の国民の反発は今回の安保法制とは比較にならないほど大きかった。事実、リクルート事件も重なり竹下政権は退陣しその後の参院選で自民党は歴史的大敗を喫することになる。だが、もし国民の多数が消費税を支持するまで消費税導入を延期するとしたら、おそらく未だに消費税は導入されず、より一層の財政難と福祉・社会保障の切り捨て、あるいは所得税負担の増大と景気低迷に悩まされていたと考えられる。太平洋戦争開戦前あるいはその直後に世論調査をしていたら、戦争を支持する者が過半数を超えていたに違いない。もし時の政権が戦争を回避するために、中国や朝鮮などの植民地を放棄していたら、世論は批難の嵐となっていただろう。それは国民に真実が伝えられていなかったからだと言われるかもしれないが、現在と同じ水準の表現の自由、報道の自由が認められていたとしても、やはり戦争を支持する者が過半数を占めていたと考えられる。当時はまだ植民地支配は帝国列強の認められた権利だとされており、日本国民の多くが中国や朝鮮に対する日本の支配を正当なものだと信じていたからだ。

 このように民意は常に正しい訳ではない。寧ろ内政でも外交でも国民の多数意見に従っていたら道を間違うことは多い。だから、民意を如何にして政治に反映させるかという課題は、如何にして適当な民意を形成するかという問題と切り離せない。竹下元首相は「いずれ国民にも消費税導入が正しかったことを理解してもらえる時が来る」と周囲に漏らしていたと言われる。安部首相も同じ気持ちかもしれない。

 この問題は極めて難しい。安保法制は日米安保を強化し、軍事的な手段で国益を拡大しようとする冒険主義者に対する抑止となり平和の維持に貢献するという意見がある。筆者はそれに同意しない。安保法制は寧ろ軍拡競争を生み戦争の危険が増す恐れが強いと考える。だから、そのような法案を憲法上疑義があるにも拘わらず強引に可決成立した安倍政権を強く非難する。だが、前者のような擁護論を間違いだと確実に立証できる証拠や理論が筆者にある訳ではない。筆者よりずっと賢く、世界のことを良く知っている(はずの)識者たちの声に耳を傾けても、賛成か反対を問わず、誰もが納得するであろうような説明は聞こえてこない。反対派は、違憲の主張を除くと、ただ「戦争は悲惨だ」という真実ではあるが安保法制とは直接関係のないことを声高に叫んでいるに過ぎない。だから、「戦争をするのではない。戦争を避けるためにこそ安保法制が必要なのだ。」という賛成派からの反論に有効な再反論ができていない(戦争を防ぐことに役立たない、寧ろリスクは高まるという論証が必要なのだ)。賛成派も、「寧ろリスクを増やすだけではないのか」という批判に「そんなことはない」という断定しか返ってこない。そして違憲論に対しては屁理屈以外にまともな回答はない。結局、残念ながら、安保法制に関して、まともな議論がなされたとは言えない。それは国会の中だけではなく、その外でもそうだった。その意味では、安保法制を巡る混乱は、民意が無視されたと言うよりも適切な民意が形成されなかったと言うべきなのかもしれない。

 健全な民意を育み、それを政治に反映させるには何が必要だろうか。先ず必要なことは十分なそして実りある討議を行う場を整備することだ。そのためには制度設計だけではなく、人々の考え方や行動の改善が欠かせない。そして、改めるべき行動の代表が相変わらず繰り返されるレッテル貼りだ。「戦争法案!」、「反日サヨク!」、こういうレッテル貼りは議論を不可能にする。制度設計は難しいが、この偏狭な態度を改めることは容易なはずだ。先ずはそこから出発したい。


(H27/9/20記)


[ Back ]



Copyright(c) 2003 IDEA-MOO All Rights Reserved.