井出薫
「(終戦の日の)玉音放送を聞いて、空襲警報に脅かされることがなくなると思うと、正直ほっとした。」戦争当時、東京郊外に暮らし空襲の恐怖を味わった私の母親がこう語る。終戦当時、若い女性の多くが同じ思いを抱いたに違いない。 戦闘が行われている地域に暮らす一般市民にとって、戦争は恐怖以外の何者でもない。安保法制への反対の高まりに苛立つ自民党タカ派議員が、「戦争にいきたくないというのは自己中心的だ」などと語ったらしいが、彼にはこういう一般市民のごく普通の感覚が全く理解できないらしい。誰も戦争で死にたくないし、戦場で人を殺したくもない。この一般市民の感覚を大切にして、平和への構想力を鍛えるのが民主制国家の政治家の務めだ。 「集団的自衛権は国連憲章で認められている。」、「いざという時、日本単独では中国に対抗できない。だから日米安保の維持強化が不可欠で、そのためには集団的自衛権の容認が必要だ。」、「憲法を守るだけでは、平和を維持できない。」自民党のタカ派諸兄はこう主張したいのだろう。だから、うっかり「法的安定性など問題ではない」という本音が口を突いて出る。「憲法、憲法と唱えていれば、平和が守れるとでも思っているのか、この能天気どもが。」これが自民党タカ派、並びに安保法制を推進する者たちの心の声だ。 彼(女)らの考えにも一理ある。米国の軍事力は図抜けて世界一で、「日本の領土に進行すると米国との戦争になる可能性がある」と相手が考えるだけで抑止力になる。誰も米国と戦争はしたくないからだ。この米国という抑止力を有効に機能させるために集団的自衛権を認めて日米安保をより強固なものにする必要があるという意見もあながち間違いではない。 しかし、これは近視眼的で日本の将来を保証するものとはなりえない。確かに直近はそれでも良いかもしれない。日米安保と記された印籠で中国を牽制することはできる。だがそれは長続きしないし、却って偶発的な衝突を引き起こす危険性がある。成長に陰りが見られるとされるが、中国の発展はまだまだ続く。13億もの人民を抱える中国は、ここ20年くらいは発展し続けることが宿命づけられている。経済発展に連れて軍事力も増強される。そうなればいずれ米国の力だけでは日本の安全保障は十分ではなくなる。さてどうするのか。日本の軍事力を強化する?そんなことをしても、世界から警戒され財政赤字が膨らむだけで、それこそ国が滅びかねない。 パワーバランスで平和を維持するという旧態依然の発想を転換しない限り、道は開けてこない。安部首相は積極的平和主義を唱えるが、この旧態依然の発想と違うものは何も見えてこない。そもそもそのようなものはないのだろう。だがそれでは先に進めない。 こう言うと「それなら、実現可能な代替案を示してみろ」という批判が出てくる。この手の批判は尤もらしい。こういう批判に応えるべく、かつて野党はひたすら現実主義に走った。そして民主党政権ができた。だがすぐに「自民党と変わらない」と見透かされ政権から転落した。現実を見ることは大切だが、可能性を見い出し、それを現実化する才覚と努力を欠いては何もできない。日米安保、米軍基地、原発、財政赤字、現実にあるものを何も変えられないのが今の日本だ。現実は変えられるし、変えないといけないこともある。ところがそれができない。しかし、日本は世界第3位の経済規模を誇り、教育水準も技術水準も高い。それゆえ現実を変えるために必要な土台はある。日米安保がなくとも、原発がなくとも遣っていける道がある。ただそれを構想することができないだけだ。安直な集団的自衛権容認ではなく、非軍事的な手段だけで平和を創生する道を構想する力を持つこと、それが何よりも求められている。 了
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