井出薫
報道の大原則は「不偏不党」だと言う。それ自体は悪くない。報道の影響力は大きく、特定の者や意見に肩入れすることは世論をおかしな方向に導きかねない。そこには、大本営発表を垂れ流した戦前の報道への反省もこめられている。しかし、インターネットなどで既存のマスメディアを超えて広く情報が流通する現代、この原則の是非に疑問が生じている。 現政権が閣議決定という形で憲法解釈を変更したことは悪い前例になった。民主主義は手続きの公平性と妥当性とにその本質がある。内閣に法案提出権があり、法案の合憲性に最終責任を持つのが内閣総理大臣であるのだから、形式的には内閣総理大臣が閣議決定で憲法解釈を変えることは認められる。しかし、内閣総理大臣の権限は強く、党内を掌握していれば、人事権により内閣は自由に操れる。連立政権を含めて与党は国会で多数を占めているから、事実上国会も制することができる。衆参両院で定員の3分の2以上を与党で占めていれば、憲法改正案を通過させることもできる。司法に対しても、人事権や行政事件訴訟法における総理大臣の異議申し立て権限などを通じて影響力を行使することができる。だが、まさにそうだからこそ、総理大臣の権限行使を制約することが必要となる。そうしないと、手続きの公平性と正当性は確保されず、内閣総理大臣の恣意で何でもできてしまう。総理大臣から一定の距離を置く内閣法制局に合憲・違憲の判断を委ねてきたのも、総理大臣の権限を制限するための知恵だった。だが、いとも簡単に安倍総理はそれを反故にした。 報道は、これに対してはっきりと異議を唱えるべきだった。安部政権を支持したり、集団的自衛権に賛成したりすることは別に構わない。特定の報道機関が、そのような立場を取ることは自由だ。しかし、絶大なる権限を有する総理大臣の行動に歯止めを掛けることは報道機関の最重要の責務であり、それを怠るようでは報道の存在意義を自ら放棄したに等しい。ところが、ほとんどの報道機関にそういう認識がない。 たとえ集団的自衛権を支持するとしても「集団的自衛権は日本の安全のために必要であるが、閣議決定(=実質「総理の意志」)でそれを合憲とすることは認められない。」と論じるべきだった。ところが報道機関は「不偏不党」の原則に胡坐をかき、はっきりとした意見表明をしない。保守と目される報道機関は勿論のこと、リベラルと言われる報道機関ですら、「国民の理解が得られていない」とか「憲法学者から批判の声があがっている」とか、他人任せの批評しかしない。それでは駄目なのだ。たとえ国民の大多数が集団的自衛権を支持していたとしても、報道は「閣議決定による憲法解釈変更は認められない。それでは法の支配ではなく人の支配=独裁になる」と主張する責務があった。 インターネットが登場するまでは、大手の新聞、テレビ、雑誌が人々の情報源であり情報交換の場だった。そこでは、確かに「不偏不党」は最重要のキーワードだっただろう。報道が特定の思想や人物に偏っていたら、偏った世論が形成されてしまう。不偏不党の原則が報道の批判的機能を弱める働きを持っていたとしても、偏向した世論形成を助長するよりはマシだった。しかし今は違う。インターネットやモバイルの普及で、既存のマスメディアを超えて様々な場で情報が流れ、共有されるようになっている。その結果、既存の大手マスメディアの影響力は衰退し、その一方で、大手マスメディアとは無関係な場所で、世論が形成されることが格段に増えている。それは良い面もあるが悪い面もある。悪い事例として、ヘイトスピーチなどに見られる中国や韓国など近隣諸国への根拠のない反感の高まりを挙げることができる。こういう趨勢に抗い、批判的な情報を提供し、公正で自由な討議の場を確保することが報道には期待される。 つまり、いま報道に求められているのは、不偏不党の原則の徹底による偏向報道の排除ではなく、自らの思想と言葉に拠る批判力の強化だ。そのためには、自らの意見をしっかりと持ち、それを公表し、報道がそういう観点からなされていることを視聴者、読者に伝えることが重要になる。勿論、事実を曲げたり捏造したりすることは許されない。それは絶対的な原則だ。しかし、無数の「事実」の中から何を取りだし、それをどのように配列し評価し、どのタイミングで報道するかは、報道の裁量に任されている。それゆえ、その抽出と配列、評価と報道の仕方に関する指針や原則をはっきりと提示することが強く求められる。それを実現することで初めて報道は実りある熟議の場となる。勿論それにより報道は今まで以上に多くの批判を呼び覚ますことになり圧力が掛かる機会も増える。報道関係者にとっては辛いことや気が重くなることが多くなるに違いない。しかし、それを恐れていたら、インターネットの時代、報道は権力の恣意を抑制し、良き世論形成の場とはなりえない。 了
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