井出薫
早ければ平成30年度から道徳を正式の授業科目に格上げし教科書も作成するという。道徳教育の重要性は認めるが、教科化には賛成しがたい。 理由は大きく分けて3つある。まず必要性に疑問がある。学級崩壊やいじめが深刻化した時期があった。しかし完全に解決したとは言えないが、現場の教師と地域住民の努力と協力、カウンセリングの導入などで事態は改善している。近頃、少年による凶悪犯罪が目に付くが、半世紀前筆者の子ども時代から少年による凶悪犯罪は存在し、特段最近になって事態が深刻化しているとは言えない。しかも犯罪を遂行する少年の多くは不登校だったり精神状態に大きな問題を抱えたりしており、道徳の教科化で事態の改善は期待できない。 道徳を教科化することが価値観の押し付けに直結する訳ではないことは理解する。寧ろ適切な授業が行われれば、価値観の多様化、偏見の解消に貢献するだろう。しかし、道徳の教科化を推進しているのが、安倍首相を長とする自民党タカ派であることから、押し付けの危険性は高い。推進派には日教組と戦後民主主義教育への嫌悪感が強く、戦後思想と日教組の解体という目論見が見え隠れする。戦後民主主義教育や日教組に多くの問題があったことは認める。ごく一部の教師に過ぎなかったが、教育現場を階級闘争の場にしようと目論む教師が存在し、少なからずその影響を受けた児童たちがいた。そういう教師やそれを支援する組織と思想に対して保守派が反撃するのは当然のことだろう。しかし、戦後民主主義教育が思想信条や信仰の自由の確立、男女差別の解消・男女共同参画社会の形成、民族的偏見の解消などに大きな貢献をしたことは否定しようのない事実だ。神風特攻隊で散って行った若者はそれが家族と友人、恩人たちを守るための行為だと信じた。その生き様は潔く高貴だと言ってよい。しかし今ならば私たちは、彼らの行為に感銘しつつも、「そのような行動では戦況は変わらない。未来ある若者を死地に追いやるべきではない。」と考えることができる。だが戦前の教育ではそのような思考回路を生み出すことはできなかったし、許されもしなかった。たくさんの思考回路を用意することができるということだけでも戦後民主主義教育は戦前の教育に優る。ところが現政治体制の下での道徳教科化はこういう戦後教育のプラスの側面(それはマイナスの側面よりもずっと大きい)を全面否定することに繋がりかねない。もしそうなれば日本の将来に大きな禍根を残すことになる。 3番目の理由は実務的なもので、道徳を授業科目とすることは困難だということだ。思いやりとお節介、優しさと気弱さ、勇気と野蛮、規律遵守と硬直性、怜悧と狡猾、正義感と頑固、これらは紙一重で見分けるのは難しい。またどちらの徳を優先すべきか迷うことも多い。他人を傷つけないために嘘を吐かざるを得ないことは少なくない。友情と規律の遵守のどちらを取るべきか迷うこともある。また「道徳的な人間」と言えば、融通が利かず面白味のない人間を意味することが多い。道徳の教科化で、そういう子どもたちを増やすことになれば、人生は面白味のないものとなろう(尤も、道徳の教科化がそこまでの効果を持つとは思えないが)。さらに、道徳は数学や物理学のように理論化・体系化することは不可能であり、どのように授業を進めれば効果的か、どのような教材が適当か判断することが難しい。それゆえ教育現場で混乱が生じることは避け難い。 このように様々な問題があり、その解説策が示されていない以上、道徳の教科化は時期尚早と言わなくてはならない。寧ろ、これまでどおり、親や地域社会の協力を得て、教師と生徒の協働生活の中で、自然に児童たちの道徳心を涵養することが望ましい。 了
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