☆ 安易に信じない ☆

井出薫

 昨年1月30日号のネイチャー誌に掲載された論文を切っ掛けに、日本中がSTAP細胞の話題で沸き返った。ところが、それから僅か一年足らずで、STAP細胞は存在しないことがほぼ確実になった。しかし、当時、私を含めてほとんどの日本人が、そして外国でも多くの者がその存在を信じた。だが今から振り返れば、最初から疑わしいものだった。どうしてそれに気が付かなかったのだろう。

 「専門家でない者が分かるはずがない。」と言う者がいる。だが、そうは思わない。日本ではほとんど者が高校まで進学し、半数以上が大学まで進学する。理工系では多くの者が大学院の修士課程まで進む。この過程で蓄積される知識の量は膨大で、知識を活かす技能も身に付いている(はずだ)。それなのに騙されるのは、やはり騙される側にも責任がある。

 なるほど、ペレルマンのポアンカレ予想の証明が正しいかどうかは普通の者には分からない。それを自ら理解し検証しようとしたら、位相幾何、微分幾何など高度な数学を学習し十分に理解しないとならない。しかも、これらの高度な数学を十分に理解するのは並大抵のことではない。私の頭脳ではいくら時間を掛けても少ししか理解できない。だから証明に誤魔化しがあっても気が付くことはできない。しかし、STAP細胞ならば、おかしいと気付くことはできた。哺乳類の分化した細胞が弱酸性液に30分浸けただけで万能細胞になることが本当ならば、なぜ今まで誰もそれに気が付かなかったのか不思議に思って当然だった。実際、専門家からは生物学の常識を覆す事実だと指摘された。そこで、「常識を覆す」と聞いて、「それなら尚更、追試で確認されるまで信じるのは止めよう」と判断するべきだった。ところが、私を含めほとんどの者がそういう思慮を欠き、「常識を覆す」=「世紀の大発見」と浮かれてしまった。実に愚かだった。

 論文を掲載したネイチャーにも責任はある。ネイチャーという一流誌に掲載されたことが信憑性を高めたことは事実だからだ。しかし、ネイチャーのような世界的に高い評価を受けている論文誌でも捏造された論文が掲載されることがあることくらい分かっていた。ネイチャーという権威を盲信し、思考停止したことは、やはり読者の責任と言わなくてはならない。しかも論文が掲載されたネイチャー誌をよく見れば、疑わしいことに気が付くことができた。真実であれば歴史に名を残す大発見なのに、驚くほど扱いが小さい。しかも7年前に起きた捏造事件の関係者のインタビューが掲載されている。想像するに、ネイチャー編集部も正しいかどうかに確信がなかった。ただ本当ならば歴史に名を刻む研究成果なので、再現実験を促すために掲載した。そんなところが真実だろう。つまり、追試で確認されるまで信じてはいけないというシグナルがすでに論文掲載したネイチャー誌から発せられていた。実際、私はネイチャーを読んでいた。そして扱いが小さいことに疑問を感じてはいた。だがそれでもSTAP細胞が真実であることを疑わなかった。同じことは、報道記者たちにも当て嵌まる。論文を精読せずとも、掲載されたネイチャー誌に目を通したはずなのに、おかしいと感じなかった。そのことはいち早く疑惑に気が付いた毎日新聞の記者の手による著作からも窺える。初めは皆、信じた。おかしいと気が付く手掛かりはたくさんあったにも拘わらず。

 STAP細胞騒動は理研と日本の科学技術の信用を傷つけた。だが基礎研究であるがゆえに実害はほとんどない。理研ほどの実績ある研究所ならば、これから良い研究を生み出し名誉挽回していくに違いない。日本には優れた研究、優れた研究者が多数存在するから、STAP細胞程度で日本の科学技術の信用が失墜することはない。そして、STAP細胞が人々の記憶から消えていく日も近く、それでも特段問題はない。だが、高等教育を受け、多くの情報に接する機会を有しながら、私たちは権威へ盲従し、騙されやすいという欠陥を有していることには十分注意が必要だ。科学技術のことでは騙されるが、政治経済、文化など私たちの社会生活に直接関係することならば、政治家や官僚、報道記者や評論家、学者や文化人などの言葉を盲信することはなく、騙されることはないと自信を持って言える者がどれだけいるだろう。おそらく居ない。「私は騙されることはない。」と断言する者が居たとしても、自分の愚かさに気が付いていないだけだろう。

 400年前、哲学者で政治家のフランシス・ベーコンは、人々が4つのイドラ(偏見、先入観などを意味する)に惑わされ誤った意見を抱くと指摘した。4つのイドラとは、@「種族のイドラ」:人間特有の性質に基づく偏見(人間の感覚器官の特性に基づき生じる錯覚など)、A「洞窟のイドラ」:個人の狭い経験を過大視することで生じる偏見、B「市場のイドラ」:流言飛語を容易く信じるなど言葉をよく吟味しないことに基づく偏見、C「劇場のイドラ」:権威に盲従することで生じる偏見、の4つだ。そして、悲しいことに、400年も経つと言うのに、人間はベーコンの時代からほとんど進歩していない。そして、そのことをSTAP細胞騒動が露わに示している。「市場のイドラ」と「劇場のイドラ」を説明するためにSTAP細胞騒動をそのまま引用することができる。『ネットに出て大騒ぎになっている、新聞の一面で大きく取り扱われている、テレビでも大きく報じられている、周囲も「凄い」、「ノーベル賞だ」と言っている、だから間違いないだろう(市場のイドラ)』。『論文が掲載されたネイチャーは世界的に権威ある科学論文誌でノーベル賞受賞論文を輩出している、ハーバード大学の教授も論文に名を連ねている、だから確かだろう(劇場のイドラ)』。

 なるほど、知識は増えたが、それと並行して処理すべき情報も増えたからやむを得ない面はある。だが、問題は私たちが自分の愚かさに気付いているかどうかだ。ソクラテスが(あるいはベーコンやデカルトが)教えたことは何だったか。「自分の愚かさ、何でも知っているつもりで実は何も知らないことを知ること」だった。自らの愚かさを知り、それを改善しようと努めるならば、私たちは安易に信じてはいけないことに気が付く。賢い者などおらず、誰もが愚かだからだ。だから自分でよく考え、考えても判断できないときは追加情報があるまで判断を延期する、これが大切になる。STAP細胞騒動では、研究者とその組織の倫理が厳しく問われている。確かにそれが大切なことは間違いない。しかし、より重要なことは、私たち一般市民が如何に権威へ盲従しやすく、騙されやすいかを知り、改善に努めることだろう。それが出来れば、自然と、人々は謙虚になり、研究者の倫理と技能は向上し、報道は慎重かつ正確になり、政治家や官僚はより市民の声に耳を傾けるようになる。理研の関係者、ネイチャーや報道を非難するだけではなく、そのことをSTAP細胞騒動の最大の教訓として受け止めてもらいたい。


(H27/2/15記)


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