☆ 民主党の再生へ ☆

井出薫

 総選挙が来月14日に決まった。結果はほぼ見えている。事前の世論調査からも、議席数を減らすとしても自公連立政権が安定多数を確保することはほぼ間違いなく、当日又は翌15日には安倍首相が「信任された」と宣言することになるだろう。

 安倍政権が経済政策や外交で一定の成果を挙げていることは認める。前四半期のGDPの伸びは予想に反してマイナスだったが、4月に3%もの消費税増税を実施したことを考えれば想定範囲内であり、アベノミクスの失敗とまでは言えない。中国、韓国との間の関係は冷え込んだままだが、この両国を除けば、精力的に世界各国を訪問し関係強化に取り組む姿勢は評価できる。

 とは言え、強引な憲法解釈の変更、特定秘密保護法の強行採決、批判の多い原発再開、沖縄の基地問題など安倍政権がもっと批判され、選挙戦が苦しくなっても不思議ではない。ところが政権批判が盛り上がらず選挙民の関心も薄い。

 どうしてか。理由ははっきりしている。人々が民主党政権に懲りたからだ。安倍政権には違和感がある、しかし民主党政権に戻す気にはならない、況や自民党以上に保守的な野党に投票する気にはならない、こういう人がたくさんいる。結局、こういう人たちは不満を抱きながらも自民党に投票するか棄権することになる。だから野党の票は前回の反動で若干伸びたとしても、自公政権を脅かすところまではいかない。

 民主党政権のどこが駄目だったのか。今振り返ると「政治主導」の誤りが大きかったと言える。

 日本は官僚支配の国だと言われるが、現実には政治家の権限が強く、官僚が行政を仕切ることなどできはしない。官僚が如何に政治家の顔色を窺って仕事をしているかを知れば、このような評価が皮相的なものに過ぎないことはすぐに分かる。現実は、官僚支配ではなく政治家が仕事をさぼっていたに過ぎない。政治主導の正当性を根拠付けるときにしばしば使われる論理は、「政治家は国民の選挙で選ばれるが、官僚は違う。だから官僚主導は民主的正当性がない。」というものだ。しかし、これは一面の真理を突いているとは言え、全面的に正しいとは言えない。近代立憲民主制では、行政は「法律に基づく行政」が大原則で日本でもそれが守られている。だから官僚は国会で制定された法律で認められたことしかできない。法律で委任された範囲での行政裁量や省令制定など行政立法は可能だが、罰則など国民の権利義務を変動させる行政行為はあくまでも国会で制定された法律(又は地方公共団体の議会が定める条例)に基づき実行する必要がある。しかも行政立法は行政手続法により最低30日間の意見募集(いわゆるパブリックコメント)を行わないとならない。集まった意見に従う義務はないが、反対意見が多数を占める場合は見直しが必要となる。−そのときこそ国務大臣が政治主導で見直しを指示すればよい。−しかも官僚は国務大臣の指揮命令に従う必要があり、また総理大臣の指揮監督権にも従わないとならない。官僚の権限は人々が想像しているほど強いものではない。事実、行政と少しでも関わりのある仕事をしている者ならば、「なぜ、もっと厳しい措置、強い措置ができないのか」と歯がゆく感じることが必ずある。だが「法律の根拠がないからできない」と官僚は言う。そして、そのとおり、官僚たちには強い措置はできない。強い措置を取るためには国会と連帯責任を有する内閣に属する政治家たちの力が不可欠となる。つまり官僚にも民主的統制は及んでいる。さらに政治家は選挙があるためにどうしてもポピュリズムに走りがちになる。だから選挙で落選する恐れがない官僚の方が長期的に見て正しい行政、公平な行政を行うことができる場合も少なくない。要するに、「政治主導」か「官僚主導」かという問いは無意味な問いに過ぎない。大切なことは法の精神が守られているかどうか、政治家と官僚の役割分担が適当かどうか、というところにある。

 ところが、ここを履き違えた民主党は、政権誕生早々、小沢元幹事長の強い意向もあり、事務次官会合を中止させ、国会での官僚の答弁を禁止した。その結果、各省庁の連携は悪くなり、国会の論戦は低調なものとなる。そして東日本大震災の際にこの誤った政治主導の弊害が露わになる。震災直後、被災地住民やインフラ復旧のために現地へ急ぐ道路、交通、ガス、水道、電気、通信などインフラ事業者はガソリンなど石油不足に直面する。そのとき各省庁は地元や事業者の苦境を察知しすぐに動き、資源エネルギー庁へ備蓄している石油の供給を働きかけようとした。そして資源エネルギー庁も動く準備はできていた。ところが、あろうことか官邸が待ったを掛けた。「全ての要請を内閣官房に集めろ、勝手に動くな。」正に政治主導を実行した訳だ。その結果何が起きたか。内閣官房には要請書の山、そして何を優先すべきか判断できない政治家たちは記載内容ではなく記載形式に拘る。緊急事態だというのに「記載不備、要再提出」。おめでたいにもほどがある。筆者は石原慎太郎元東京都知事の政治思想に心から不同意の者だが、この時だけは石原の言い分が正しいことに心から同意した。石原は言った。「事務次官会合を直ちに再開し、官僚を現地に行かせろ。官僚は、発想力はないが経験がある。」そのとおり。官僚に適切な仕事をさせるのが政治家の仕事だ。ところが緊急事態に、官僚に仕事をさせようとしないのだから、どうしようもない。未熟もここまで来るとほとんど犯罪だ。

 その後、反省した民主党は、事務次官会合に相当する会議を復活させ、官僚に任せるべきところは任せるようになった。だが時はすでに遅かった。一度狂った歯車は簡単には修復できない。結局、民主党政権時代に政治家と官僚との間に好ましい関係は確立できず、そのまま民主党政権はこれと言った成果を挙げることもなく、景気が悪いままで消費税増税だけを決めて終幕を迎える。これでは、自民党に不満を持つ者たちも「今一度民主党政権を」という気持ちにはならない。政治主導が気に食わない官僚たちが民主党政権の足を引っ張ったと言う者もいる。確かにそういうことも無くはなかったかもしれない。しかし官僚の中にも民主党に期待していた者は少なくなかったし、そもそも先に述べたとおり官僚は、自民党だろうが民主党だろうが、大臣や政務官の言うことには必ず従う。それがルールだからだ。日本の官僚は杓子定規なほどルールを守る。だから官僚の所為にするのは間違っている。寧ろ、トロイカ体制などと呼ばれた小沢、鳩山、菅の3名の責任が大きい。鳩山と菅はそれなりに政治家としての見識はあったかもしれないが、状況判断が悪く歴代総理大臣の中でも「最も総理大臣に相応しくない人物」だったし、小沢は独善的で「最も縁の下の力持ち(幹事長)に相応しくない人物」だった。野田は総理の資質はあったと思うが、如何せん経験不足で、党分裂を招き選挙で大敗を喫することになる。

 一方、安倍政権は民主党の失敗を政権運営に活かしている。安倍は一見強引に自分の意見を通す独裁者的人物に見えるが、大臣や官僚の立場にも配慮して上手く使っている。先日、小渕、松嶋の二人を不祥事から辞職させたが、政権だけではなく二人が大きく傷つかないうちに辞めさせたと言える。また、この二人の前には、辞職者は一人もいない。また、アベノミクスを除いて、自らの政治信条を突出させていない。集団的自衛権は閣議決定で押し切ったとは言え、その内容は自国民を守るために必要な範囲で発動するというもので実質的に個別自衛権と差はない。だから集団的自衛権とは同盟国が攻撃を受けたとき自衛隊の海外出動を認めることだとする石破との間で意見の相違が生じ、石破が幹事長職を去り閣内に入ることになった。しかし、おそらく安倍も本心では石破の考えと同じに違いない。だが、それでは公明党との関係が悪化し、国民の批判も浴びることになることが分かっているため、とりあえず「集団的自衛権は認められる」という名だけを取ったと思われる。(筆者は集団的自衛権には反対だが)政治家としては賢明な対応だと認められる。これも誤った理念に固執し失敗した民主党及び第一次安倍内閣の体験を活かしたものだと言えよう。

 しかし、このまま自公政権が安定多数を維持し続け、野党が少数乱立状態で対抗勢力となりえない状況が続くことは好ましくない。政治的立場の違いから統一は無理だとしても、民主党が中心となり、共産党や社民党まで含めた全野党による共闘体制を作り出すことが強く望まれる。たとえ自公政権が良い政権だったとしても、議席を独占するような状況になれば必ずおかしいことになる。そのためにも、民主党には何が悪かったかを良く考え反省し、生まれ変わった姿を見せてもらいたい。また、政治思想の左右を問わず、野党各党にはこのままでは自公政権が強大化するだけであることをよく弁え、賢明な行動をとることを強く望みたい。


(H26/11/24記)


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