☆ 憲法第9条とノーベル賞 ☆

井出薫

 憲法第9条がノーベル平和賞の候補となっていた。護憲派の支持者としては、落選したがその意義は大きいと言いたいところだが、どうもそういう気にはならない。

 憲法第9条を変更しなかったからと言って、日本国民がノーベル平和賞に値するとは言い難い。日本が憲法第9条を厳格に守り日米安保と自衛隊を拒否し非武装中立を貫いてきたならば、平和賞に値するかもしれない。だが、日米安保は軍事同盟的な色彩が強く、自衛隊も専守防衛の組織としては巨大すぎる。自衛隊が被災時に人々を守るために大活躍していることは勿論認める。しかし、こと軍事面では平和のための組織とは認めがたい。また改憲派からは、日本が平和を維持できたのは、自衛隊と日米安保に拠るところが大きく、憲法第9条など役には立っていない、だからこれからも平和を維持するために第9条の改正が必要なのだという反論がなされよう。筆者は第9条が平和を維持するために大きな貢献をしてきたと評価しているが、第9条が全てだったとは考えていない。また日本の政治家や市民が世界平和に大きな貢献をして来たのかと問われると、甚だ疑問と答えなくてはならない。だがそうなると第9条だけでは平和賞に値しないという結論になる。

 一方、護憲という立場から、ノーベル平和賞という権威にすがることに疑問がある。ノーベル賞は確かに世界で最も有名で権威ある賞ではあるが、スウェーデンとノルウェーの選考委員会が単独で決める賞に過ぎない。そのために、平和賞に限らず全ての分野で選考に偏りが生じ、その妥当性に疑問が付く受賞が多い。実現困難と言われていた青色LED(青色発光ダイオード)の発明は確かに素晴らしい業績で、受賞した日本人3名が物理学賞に値することは間違いないが、最初のLED(赤色LED)の発明者であるホロニアックが賞から漏れていることには大きな疑問が残る。ホロニアックによるLEDの発明があったからこそ、青色LEDも生まれた。だから、この最初の発明者が賞から漏れるのは合点がいかない。トルストイが世界文学史上最高の作家の一人であることは誰もが認める。過去ノーベル文学賞を受賞した誰よりもトルストイの方が遥かに偉大だと言ってもよい。そのトルストイは1910年まで生きていた。つまりノーベル賞が始まった1901年から10年間ノーベル文学賞選考委員たちはトルストイに賞を与える機会があった。どうしてトルストイがノーベル文学賞に選ばれなかったのかは知らない。だがトルストイの例は、ノーベル賞が決して完全に公平な賞ではないことを示している。要するに、ノーベル賞と言えど、他の様々な賞と同じで、偏りがあり、当たり外れの大きい賞であることに変わりはない。そのような賞に頼ることは、権威主義であり憲法の精神に合致しない。そもそも護憲派の多くは佐藤栄作元首相のノーベル平和賞受賞に懐疑的又は否定的だろう。それなのに、憲法第9条をノーベル平和賞に推挙することは矛盾していないだろうか。

 第9条の是非は、ノーベル平和賞に値するかしないか、などという次元の問題ではない。たとえノーベル平和賞を受賞したとしても、安倍、石破、石原慎太郎などの改憲派が改憲を放棄することはない。「ノーベル平和賞を決める委員たちに日本の将来を決める権利などない。日本国民を守るのは日本の政治家の仕事だ。」と言うだけだ。ノーベル平和賞は改憲の歯止めにはならない。

 ノーベル賞も、日本国憲法第9条も曲がり角に差し掛かっている。第9条がノーベル平和賞の候補になったことがその象徴であるように思われる。ノーベル賞が始まった20世紀初頭は科学技術が現在と比べて大きく遅れていた時代で、アインシュタインのような超大物がいる一方で、ノーベル賞受賞の候補者となりえる者は限られていた。だが、今や、ノーベル賞をとっても不思議ではない者が世界中で数万あるいはそれ以上の規模で存在する。逆にアインシュタインのような超弩級は見当たらない。だから毎年各賞3名以内で受賞者を選ぶという現行のノーベル賞の選考方式には無理がある。その結果毎年のように「なぜ、彼又は彼女が選ばれないのか。」という疑問が投げ掛けられることになる。一方、第9条も同じような立場にある。敗戦から69年が経過し、東西冷戦が終結してから四半世紀が過ぎた今、第9条の存在意義も変容せざるを得ない。「第9条を堅持し平和を守れ」と叫んでいるだけでは人々の心を掴むことはできない。ノーベル平和賞への推挙に40万もの署名が集まったと言うが、その数は日本人の1%にも満たない。もしノーベル平和賞を受賞していたら、市民や報道はどういう反応を示していただろう。青色LEDのように歓迎一色という訳には行かない。戸惑う市民、論調が分かれる報道、おそらく全体的に有難迷惑という雰囲気に包まれることになる。多くの市民が第9条を無条件で支持するという時代は過ぎた。これからはもっと議論を深め、メリット、デメリットを吟味したうえで護憲なり改憲なりの運動を進めていかないとならない。そして単に日本の平和を守るだけではなく、世界平和に、観念的にではなく、平和的で実効性のある貢献をしていく必要がある。さもないと集団的自衛権の閣議決定で決定的となった第9条の空洞化が益々進むことになる。


(H26/10/12記)


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