☆ 社会保障の充実を ☆

井出薫

 役員秘書を務めている派遣の女性が来月末で退職すると言う。理由を尋ねたら「老後が心配だから、正社員の職を探します。」と答えた。まだ30代で、結婚して共働き、夫婦で収入がある。そんな女性が老後の心配をするのだから驚いた。もしかするとそれは本音ではなく、周囲を気づかっての発言かもしれない。しかし、今の若い人たちが老後に不安を抱いていることは間違いない。

 筆者が若い頃は、株など有価証券に投資する者は少なかった。会社の持株会に入会する者も少なく、総務は必死になって勧誘していたが入会する者は限られていた。総じて、株に投資する者は資産運用と言うよりも、ギャンブルを楽しむという感覚で株取引をしていたと思う。しかし、今は、20代、30代の若手を含めて正社員の多くが持株会に加入している。退職後に備えて、20代から年金保険に加入している者も少なくない。公的年金の支給年齢の引き上げが議論される中、多くの者が老後に不安を抱いており、派遣の女性が老後の心配をするのはごく自然なことなのかもしれない。

 アベノミクスが一定の成果を挙げ景気は好転し失業率は下がっている。派遣の女性も正社員の道が開けたから退職するのかもしれない。だが、先のことを考えると、20代、30代から老後を心配しなくてはならないという状況は決して望ましいことではない。景気が好転し消費意欲も少しばかり上がってきたが、老後の蓄えが必要となると、それも限界がある。高齢化が進みただでさえ消費が先細りになることが予想される中、この状況は安定成長を阻む高い壁になる。年齢を問わず社会保障への不安から来るカベノミクスと言ってもよい。結局、日本経済は相変わらず輸出頼みの状況が続く。しかし自動車産業を除くと日本企業の国際競争力は低下しており、輸出でこの先も稼げる確かな保証はない。

 財政難もあり、寿命の延びとそれに伴う高齢者の増加を理由に政府は公的年金の支給時期を遅らせる方向で検討を進めている。だが、それが勤労世代の不安を益々募らせることになる。しかも高齢者の世話は基本的に家族でしろと言うのだから、尚更だ。消費税増税で高齢者の生活は苦しくなっている。高齢の親を持つ世代は、親を経済的に支え、子どもの教育費を支払い、さらには家のローンも返済しないとならない。こんな状況では、いくら国が少子化対策を叫んでも、一部の金持ちを除くと、子どもを増やす余裕はなく、消費の活性化も期待できない。その結果、国内消費は低迷し、安定成長は実現できない。

 成長戦略を軌道に乗せるには、社会保障を充実させ、高齢者とその家族の負担を減らし、人々の老後への不安を緩和する必要がある。それが消費の活性化をもたらし、安定的な経済成長へと繋がる。日本は国土が狭く人口が多く、北欧諸国と同等の高福祉社会を実現することは容易ではない。しかし米国型の競争社会は日本には似合わない。日本では、成功者が地位と名誉を得ることは容認されるが、莫大な富を独占することには強い抵抗感がある。その一方で、働いても働かなくても収入に大差はないという状況でも、だから怠けるといういわゆるフリーライダー問題は生じにくい。バブルが弾け、格差が拡大するまで、日本は社会主義的だと諸外国から指摘されることがしばしばあったが、それにはこういう日本社会の特質がその背景にある。しかも米国が激烈な競争社会を続けることができるのは世界最強の政治経済と軍事力があるからだが、日本にはそのようなものは望むべくもない。日本は米国型ではなく北欧型に近い社会の構築を目指すべきだ。

 財政再建は重要な課題だが、まだ日本には多額の個人資産があり、すぐに国が破綻するような状況ではなく、社会保障を充実させる余力は残っている。寧ろ保障を充実させることが消費を活性化させ景気対策になり税収の伸びに繋がる。またアベノミクスで市場に溢れる資金が福祉、教育などの分野に流入するよう税制上の優遇措置を取ることで、民間による社会保障の充実を図ることも考えられる。さらに成長戦略の一環として法人税減税が検討されているが、法人税減税の代償として、企業が拠出する社会保障費の増額を同時に実施することで社会保障の充実が図れる。いずれにしろ、社会保障の充実ができるか否かが、日本経済が長期的に安定するかどうかの分かれ目になる。輸出頼りで一部の者だけに富が集中し社会保障が後退するようでは、アベノミクスは早晩息切れし、残るは膨大な財政赤字だけということになる。

 お金は持ち手を変えるだけで消滅することはない。財政赤字だから社会保障費は削減せざるを得ないという主張は全くの短絡的な思考だと言わなくてはならない。たとえば働くことが困難な高齢者や児童、難病患者たちに提供したお金はいずれ必ず勤労者の手に渡り、税金として国に帰ってくる。無駄な支出などというものはこの世にはない。ただ悪事に加担したり自らを損ねたりする支出だけを避ければよい。そのことをよく考え、社会保障の充実を図るべきだ。そして、それは必ずできる。


(H26/5/25記)


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